「絶家血系図」完成

「絶家血系図」が完成しました。

全四巻 中断を挟んで10年あまりの年月を費やし、

その間に校正しながら誤りも見出して、困難のうちに完成

 

「絶家血系図」は徳川幕府の始まりから幕末までの

名家のうちで絶家となった家系を血系図(血脈)で綴ったものです。

出来るだけ子女系も辿り、全血系を纏めました。

 歴史学者でもない者が、二次・三次資料で纏めた血系図なので、誤りも多いのではないかと危惧しております。

ので、歴史書ではなく、参考資料としてお読みください。

 

一代で断絶した佐々成政の血筋が、娘輝子の血脈で後桃園天皇等々と繋がっているのを辿ることができるように、子女系の血系図に興味を持って頂けると幸いです。

 

 絶家となることのない皇室関係(旧華族を含む)の血系図も網羅しました。

それは、家は絶えても血脈は皇室関係にも伝わることをお示ししたかったからです。

 

 「絶家血系図」に少しでも興味を持って頂けますよう、お願いいたします。

 

 

なお

私家本の為、市販はしていません。順次図書館等に寄贈する予定です。

       

私の城攻め  福山城

私の城攻め
福山城

 

備後南部の中心地は
福山城から北東約6キロメートルに位置する西国街道沿いの神辺で、

ここに備後国の政庁である「神辺城」があった。
また、海においては福山城から南にある鞆の浦海上交通の要衝となっていた。
徳川家康の従兄弟である水野勝成 が西日本の外様大名に対する抑えとして
備後国東南部と備中国西南部の計10万石を与えられ、

大和国郡山藩から転封する。
元和8年(1622年福山城竣工
2020年から2022年にかけ、築城400年を記念した大規模な改修工事が行われた


現在の天守、月見櫓、御湯殿は1966年に鉄筋コンクリート構造で復興されたものです。


三の丸南側はJR福山駅が東西に貫き、新幹線や福塩線のホームからは、
天守や伏見櫓が聳立する本丸跡を間近に望むことができる。


福山城の年表


元和5年(1619年) 築城が開始される。
元和8年(1622年福山城竣工。
  2重の付櫓が取り付く複合式の五重天守や三重櫓、二重櫓、多聞櫓
  10万石の大名の城としてこの規模は特筆に値する。
延宝4年(1676年) 総構に石垣が築かれる。
元禄11年(1698年) 水野家断絶。

         5代藩主水野勝岑の早世により無嗣除封となる
元禄13年(1700年) 出羽国山形藩より松平忠雅が入封する
宝永7年(1710年) 松平忠雅が伊勢国桑名藩に移封させられ、
         阿部正邦が下野国宇都宮藩より入封する。
慶応元年(1865年) 櫛形櫓、槍櫓、鉄砲櫓が火薬を爆発し焼失する。
慶応4年(1868年) 福山城開城。
明治4年1871年廃藩置県
明治6年1873年福山城廃城、施設の売却が始まる。
明治7年(1874年) 本丸が下賜される。
明治8年(1875年) 本丸が「福山公園」となる。東側に階段が敷設される。
昭和6年(1931年) 福山城天守が当時の国宝に指定される。
昭和11年(1936年) 本丸が国の史跡に指定される。
昭和20年(1945年) 戦火により天守・御湯殿等が焼失する。
平成18年(2006年)日本100名城(71番)に選定される。
令和4年(2022年)「令和の大普請」が完成し、福山城400年博が行われた


福山城 城主


主な城主
水野勝成

1564年(永禄7年)、三河国に生まれる。
         勝成の父忠重と徳川家康母の於大は姉弟であるため

         徳川家康とは従兄弟の関係にあたる。
1579年(天正7年)遠州高天神城攻めで、初陣を飾る
1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いの時、父の勘気を受け諸国を遊歴する
1599年(慶長4年)父忠重と和解して帰参した。
1600年(慶長5年)父忠重が暗殺され、37歳でその遺領刈谷3万石を継ぐ
1615年(元和元年)大坂夏の陣で猛将として活躍、

         その功績により大和国郡山に6万石で移封される。
1619年(元和5年)4万石加増されて備後10万石に移され、

         福山藩の歴史が始まる。
1622年(元和8年)福山城が完成する
1638年(寛永15年)74歳の老身をもって島原の乱に出陣、

         そして鎮圧後には嫡男勝俊に藩主の座を譲る
1651年(慶安4年)88歳で福山において死去、寺町賢忠寺にて葬られる。


⑤水野勝岑
1697年(元禄10年)福山において生まれる。

         この年勝種の急死によりわずか1才で家督を継ぐ。
1698年(元禄11年)参府の途中病にかかり、江戸にて2才という若さで亡くなる。
         お家断絶を迎えることとなった

         福山藩は武家諸法度により取り潰し、退去が下される。
         勝成曾孫の勝長が水野家を継ぐことが許されるが、
         福山から遠く離れた能登国にわずか1万石であった。
         その後結城藩へ移封となり現在まで続いていく。


⑥松平忠雅


1683年(天和3年)松平清輝の長男として出羽山形に生まれる。
1700年(元禄13年)に山形から福山への移封が決定する
1709年(宝永6年)松平忠雅は福山領内に入る
1710年(宝永7年)伊勢桑名へ移封となってしまう。
        松平家は通称奥平松平、元は奥平姓で三河の豪族であった。
        奥平信昌と徳川家康長女の間に生まれた忠明が家祖

        大和郡山・播磨姫路・下野宇都宮等様々な土地に移封となり、

        武蔵忍藩時代にはペリー来航に伴い台場の守備にあたる。


⑦阿部正邦

1658年(万治元年)阿部家5代当主として武蔵国で生まれる。
1671年(寛文11年)父定高の遺領であった武蔵国岩槻を襲封
1681年(天和元年)に丹後国宮津
1697年(元禄10年)に宇都宮へと転封を重ね、
1710年(宝永7年)53歳で備後国福山に入封する。
1715年(正徳5年)江戸において死去。
       初代の正勝は家康が今川家の元で人質生活の時期から近待

       水野家や松平家と同じく代々徳川家に仕える譜代の家柄である。


阿部正弘

1819年(文政2年)正精の6男として江戸藩邸で生まれた。
1836年(天保7年)兄の正寧の養嗣子となり、18歳で家督を継ぐ
1837年(天保8年)福山に帰国するも、その滞在はわずか2か月余りであり、

         江戸に戻って奏者番
1840年天保11年)寺社奉行を兼任する
1843年(天保14年)に25歳の若さで老中に抜擢される
1844年(天保15年)に老中首座となった。
1853年(嘉永6年) ペリーの浦賀来航、
1854年安政元年)日米和親条約の締結に至る開国問題を老中首座として指揮

1855年安政2年)藩校誠之館を福山に開校
1857年(安政4年)39歳の若さで病没する。


⑯阿部正桓


福山藩は前藩主である正方の不慮の死の後、藩主不在であった


1868年(慶應4年)広島藩浅野長勲の弟を正方の養子として、

        更に正弘の6女寿子に婿入りする

1868年(明治元年箱館戦争へ出兵する
1869年(明治2年)に榎本軍は投降し、戊辰戦争は終了した。
1871年明治4年)「廃藩置県」が断行され福山藩は福山県となる

 

歴代藩主

水野勝成
②水野勝俊
③水野勝貞
④水野勝種
⑤水野勝岑

     水野家福山藩は無嗣改易により取り潰し、福山からの退去が下される。
         勝成曾孫の勝長が水野家を継ぐことが許されるが、
         福山から遠く離れた能登国にわずか1万石であった。
         その後結城藩へ移封となり現在まで続いていく。


⑥松平忠雅

     伊勢桑名へ移封

     大和郡山・播磨姫路・下野宇都宮等様々な土地に移封となり、幕末まで続く


⑦阿部正邦
⑧阿部正福
⑨阿部正右
⑩阿部正倫
阿部正精
⑫阿部正寧
阿部正弘
⑭阿部正教
⑮阿部正方
⑯阿部正桓

    広島藩浅野長勲の弟が正方の養子となる

    

 

 

私の城攻め 岡山城 2022.12.12

私の城攻め 岡山城 2022.12.12

岡山城の歴史は、

宇喜多直家が、岡山城の前身となる石山の城を手に入れたことから始まります。

本格的な城下町づくりは、直家の子の宇喜多秀家が行いました。

その後、小早川秀秋、池田家と歴代城主が城下町を整備し、

現在の岡山のまちへとつながっている

2022年11月3日 岡山城は令和の大改修を終えてリニューアルオープン

 

岡山城の歴史
1573年 宇喜多直家は石山城に入城
1590年~ 宇喜多秀家によって岡山城に改築される
 (1600年 関ヶ原戦に負け、八丈島に配流となる)
1600年 小早川秀秋備前美作52万石の藩主として入城
 (1602年 無嗣改易 小早川家断絶)
1613年 池田忠継が備前28万石を与えられ入城
1615年 池田忠雄が31.5万石で入城、岡山城の縄張りを完成させる
 (1632年 因幡鳥取藩に転封)
1632年 池田光政因幡鳥取藩から転封となる
1687年~ 池田綱政が後楽園を造営する
1869年 版籍奉還岡山城は存城となる
1873年 廃城令により取り壊し始まる
1931年 天守が国宝に指定される
1945年 岡山空襲で天守焼失
1964年~ 天守を鉄筋コンクリートで再建
1987年 岡山城址として史跡に指定される
2006年 日本100名城に選定される


岡山城主の人物像

1代     宇喜多秀家

   宇喜多家は関ヶ原の敗戦で改易となるが、子孫は幕末期まで存続

1代     宇喜多秀家    
2 代    小早川秀秋 

関ヶ原の戦い時の同時代人

 

 

3代     池田 忠継  から 10 代     池田 斉政 までは直系池田氏

14 代     池田 章政    と
15 代     池田 詮政 は相良氏の血筋

           なれど相良長寛は池田宗政の子で池田氏の血筋を継ぐ

 

11代    池田 斉敏 と

12代    池田 慶政  は島津氏の血筋 

         なれど池田輝政の娘茶々姫から池田氏の血筋を継ぐ

島津斉宣の娘郁姫から

    近衛文麿池田氏の血筋を継ぐ

 

 

 13 代    池田 茂政  は徳川氏の血筋 徳川慶喜の弟

 


人物像を「血系図」から見てみると、色々興味深い人物が登場してきました

 

岡山城

1            宇喜多秀家    1573 ~1655    
2            小早川秀秋    1582 ~1602    
3            池田 忠継    1599 ~1615    
4            池田 忠雄    1602 ~1632    
5          池田 光政    1609 ~1682    
6            池田 綱政    1638 ~1714    
7            池田 継政    1702 ~1776    
8            池田 宗政    1727 ~1764    
9            池田 治政    1750 ~1818    
10          池田 斉政    1773 ~1833    
11          池田 斉敏    1811 ~1842    
12          池田 慶政    1823 ~1893    
13          池田 茂政    1839 ~1899    
14          池田 章政    1836 ~1903    
15           池田 詮政    1866 ~1909    

 

備前岡山藩主の血筋
池田輝政
伊達政宗
黒田長政
立花忠茂
島津綱久
徳川家康
              があります
池田斉敏岡山藩主9代)は島津斉彬(薩摩鹿児島藩11代)の弟
池田茂政岡山藩主11代)は徳川慶喜(徳川15代将軍)の弟
岡山城の参照ブログ

 

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毛利重就の娘の血系図

 

毛利重就の娘佐代(鷹司輔平の血筋

西園寺公望1906年内閣総理大臣に任じられ、

      第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。
      1916年正式な元老となった。
      「最後の元老」として大正天皇昭和天皇を輔弼、
      実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。

毛利重就の娘友子(山内豊雍)の血筋

山内豊信土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著の長男
     諱は豊信 隠居後の号は容堂
     酒と女と詩を愛し、自らを好んで「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」

     や「酔翁」と称した。
     藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、

     尊王家でありながら佐幕派でもあり、

     一見中途半端な態度をとったことから、

     「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄
三条実美:公卿三条実万の三男として生まれる。正室山内紀子の子
     幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、
     明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣内大臣、 

     貴族院議員などを歴任した。

 

 

 

尾道ゆったり歩き記より転記

 

私の城攻め 萩城3 

志都岐山神社

祭神は毛利元就毛利隆元毛利輝元毛利敬親毛利元徳

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円政寺

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七代藩主毛利重就の娘の血筋
幕末まで続いている血筋に幕末・明治維新期に活躍する誰もが知っている人物が傑出しています。
毛利重就の娘佐代(鷹司輔平の血筋

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  菊亭家26代 菊亭脩季
  徳大寺家27代 徳大寺実則
  西園寺家37代 西園寺公望
  住友家 住友友純
毛利重就の娘友子(山内豊雍)の血筋

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  土佐高知15代藩主 山内豊信(容堂)
  土佐高知16代藩主 山内豊範
  筑前秋月12代藩主 黒田長徳
  山内豊策の娘紀子(三条実万
   三条家31代 三条実美

 

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長門萩藩 2

   長門萩藩 血系図 子女系

毛利秀就の娘 竹姫(鷹司房輔室)は徳川慶喜室の美賀子

                 徳川家茂室の皇女和宮 に続きます

毛利輝元の娘 竹姫(吉川広正室)は徳川慶喜室の美賀子 に続きます

織田信長の娘(吉川広正室)は徳川慶喜室の美賀子 に続きます

 

萩藩の歴史は 「尾道ゆたっり歩き記」より転記します

以下は 私の城攻め「萩城2」から転記

私の城攻め 萩城2 

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天守台跡

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初代藩主毛利秀就の娘の血筋
幕末まで続いている血筋は竹姫(鷹司房輔の血筋のみですが、

皇女和宮まで続いている

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竹姫(鷹司房輔)の血筋
  山科家24代 山科言縄
  清水谷家23代 清水谷実英
  今出川公久の娘美賀子 一条忠香養女(徳川慶喜
  勧修寺家28代 勧修寺顕允
  飛鳥井家26代 飛鳥井恒麿
  橋本家19代 橋本実頴
  橋本実久の娘経子(仁孝天皇典侍和宮徳川家茂

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長門萩藩 1

  長門萩藩の血系図

萩藩の歴史は 「尾道ゆたっり歩き記」より転記します

 

 

 萩城

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天守台から

 

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萩城は1604年に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれる。

毛利輝元f:id:yo3519:20210828115521j:plain

山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城です
本丸には高さ14.4mの五層の天守がありましたが、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されています

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城跡は指月公園(しづきこうえん)として整備され、二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。

萩城の歴史

1600年 関ヶ原の戦いで西軍総大将となった毛利輝元

    安芸国ほか8か国で112万石の大大名であったが、
    敗戦により防長2か国29万8千石に減封された。
1604年 毛利輝元広島城に代わる新たな居城として萩城を築く
1863年 藩主毛利敬親は幕府に無許可で藩庁を山口城に移す(山口移鎮)
1874年 廃城令により天守・櫓などの建物を破却。
1967年 萩城下町が国の史跡に指定される。
2006年 日本100名城(75番)に選定される。
2015年 ユネスコ世界遺産
    「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」

    の1つとして登録される。

 

萩城主の人物像
人物像を「血系図」から見てみると、色々興味深い人物が登場してきます

     *お詫び:「血系図」の画素が小さくて読みづらいので、申し訳ございません。
           容量の問題でこれ以上の画素はアップロードできないのです

毛利氏

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長門萩初代藩主 毛利秀就1595-1651
長門萩二代藩主 毛利綱広1639-1689
長門萩三代藩主 毛利吉就1668-1694
長門萩四代藩主 毛利綱広の子 毛利吉広1673-1707
長門萩五代藩主 毛利綱元の子 毛利吉元1677-1731
長門萩六代藩主 毛利宗広1717-1751
長門萩七代藩主 毛利匡広の子 毛利重就1725-1789
長門萩八代藩主 毛利治親1754-1791
長門萩九代藩主 毛利斉房1782-1808
長門萩十代藩主 毛利治親の子 毛利斉煕1784-1836
長門萩十一代藩主 毛利親著の子 毛利斉元1794-1856
長門萩十二代藩主 毛利斉煕の子 毛利斉広1814-1837
長門萩十三代藩主 毛利斉元の子 毛利敬親1819-1871
長門十四代藩主 毛利広鎮の子 毛利元徳1839-1896

長門萩初代藩主毛利秀就の直系血族は四代藩主毛利吉広で絶える

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五代藩主毛利吉元は長門府中初代藩主毛利秀元の血筋

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七代藩主毛利重就は長門清末初代藩主毛利元知の血筋

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十四代藩主毛利元徳は周防徳山初代藩主毛利就隆の血筋 となる

 

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「血系図」?知らない!  

「血系図」?知らない!  

 

「血系図」とは

家系図を血筋から見ていく系図です

例えば 大正天皇の生母愛子は柳原家の出です→153や

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柳原愛子の父光愛の3代前の紀光の母は織田家の出です→3

 

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織田家の血系図続きます

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  下段の数字は「絶家血系図」の参照ページです

(1)→織田信長 織田信休の娘郁子は柳原紀光の母→153

         織田信良の娘は稲葉知通の母→19

(89)→斎藤道三 斎藤道三の娘は稲葉典通の母→19

(89)→明智光秀 明智光秀の娘ガラシャ細川忠興の娘多羅の母→90

         細川忠興の娘多羅は稲葉信通の母→19

(19)→稲葉貞通 稲葉恒通の娘は勧修寺経逸の母→125

(38)→池田恒興 池田仲庸の娘計子は光格典侍婿子の母→125

(6)→徳川家康 徳川家康の娘督子は池田忠雄の母→38

         松平信康の娘登久姫の孫娘三保姫は池田光仲の母→38

         徳川頼房の娘因幡姫は池田仲澄の母→38

いずれも大正天皇に続く血筋です