「血系図」からみる歴史事件簿(26)藤原種継暗殺事件785年

「血系図」からみる歴史事件簿 (26)藤原種継暗殺事件 785

 

藤原種継は藤原式家・藤原宇合の孫で 長岡京遷都の責任者。

桓武天皇を天皇の座へと押し上げた藤原百川の甥にあたります。

  • 藤原百川(式家)→桓武天皇を擁立した人物

  • 藤原種継(百川の甥)→桓武天皇に最も信頼された人物

        

藤原種継暗殺事件 の経緯

785923日夜 長岡京造営の責任者・藤原種継が

  何者かに矢で射られ重傷を負い翌日自邸で息を引き取った。

  実行犯として伯耆桴麻呂らが直ちに捕らえられた。

  首謀者として大伴継人・竹良が逮捕されました。

  さらに佐伯高成・多治比浜人も捕らえられ

  春宮坊に仕える者たちに容疑者が多いことが判明し

  東宮大夫の大伴家持が黒幕とされた

  ——しかし大伴家持は事件の1ヶ月前に死亡していた

**万葉集との意外な関係**

  • 尋問の結果事件の首謀者は約一ヶ月前に多賀城で死去した

    大伴氏の最長老大伴家持ということになった。

    家持はその生前に遡っての名誉の剥奪。

    この時点で家持が最終的に編纂に関わったと推定される

    「万葉集」は確実に封印されたでしょう。

    このことが結果的に「万葉集」を確実に後世へ遺した。

  • 藤原種継暗殺事件 の要因

種継主導の下の遷都や人事などをめぐって

 藤原氏と大伴・佐伯両氏との根深い対立がありました。

 大伴・佐伯氏という古い豪族が藤原式家の台頭に憤慨

大伴・佐伯氏は——

  • 奈良時代以前からの古い豪族

  • 藤原氏台頭以前の名門

  • 種継の強引な長岡京遷都に強く反発

  • 自分たちの権益が削られることへの怒り

桓武天皇が事件を利用した

 種継襲撃事件を利用、自身の子である安殿親王の安泰を図り

 不安要素である早良皇太子を除こうとする桓武の意思。

藤原北家が仕掛けた

 中納言藤原小黒麻呂は早良親王の謀叛を強く主張しました。

 

種継暗殺事件の全体像

  • 実行犯:大伴・佐伯氏の古い豪族の怒りの暴発

  • 被害者:藤原式家・種継

  • 冤罪:早良親王(動機すらなかった)

  • 漁夫の利:藤原北家・小黒麻呂が廃太子を主導

  • 最終的な勝者:藤原北家

藤原種継暗殺事件の早良親王

785923日 藤原種継が矢で射られて暗殺され

  容疑者十数名が捕らえられ、

  その中に早良親王が含まれていた。

  早良親王は皇族のため淡路国へ流罪となりましたが

  途中の乙訓寺に幽閉され食を断って死亡した。

○○早良親王とはどんな人物か○○

早良親王は光仁天皇の皇子で母は高野新笠、桓武天皇の同母弟

早良親王は11歳で出家し修練・修行を重ね

大安寺東院に移り高僧になっていました

781年 32歳のとき兄である桓武天皇が即位した際に

  父光仁天皇の勧めにより還俗し立太子された。

  早良親王は平城京の寺院勢力と強い結びつきがあった

785年 藤原種継暗殺への関与——冤罪の可能性が高い

  早良親王や春宮坊関係者と寵臣の藤原種継の対立

   桓武天皇は東大寺など南都と因縁の深い早良親王とは

   融合出来なかった

早良親王の過酷な最期

早良親王は廃位され、乙訓寺に幽閉された。

  • 弁明の機会が全く与えられなかった

  • 幽閉中に絶食して無実を訴えた

  • 配流の途中で息絶えた

  • 遺体がそのまま路傍に埋葬された

    **過酷―親王最期の真相——**

    第一層:表向きの理由 種継暗殺事件への関与疑惑

    第二層:桓武天皇の本音

      種継襲撃事件を利用して自身の子である安殿親王

        の安泰を図り早良皇太子を除こうとした

    第三層:最も深い理由

       早良親王と南都仏教対桓武天皇との根本的な対立

       早良親王は南都仏教の象徴

    桓武天皇が最も排除したかった「奈良時代の遺物」でした

       

    早良親王:怨霊の祟り——桓武天皇を苦しめた災厄の連鎖

       早良親王が憤死した3年後から

       桓武の宮廷内では次々と不幸な出来事が起きた。

    7886月に桓武妃・藤原旅子が30歳で没しました。

    7904月には皇后・藤原乙牟漏も30歳で亡くなりました。

     同年1月には母の高野新笠までもが薨去しました。

     安殿皇太子も体調がすぐれず陰陽師に占わせたところ

     早良親王の祟りと出ました。

     桓武天皇はこれを聞き早良親王の怨霊をとくに恐れた。

     そこで人心の一新を図るべく

    794年 平安京に遷都しました。

     

    流れ

    • 長屋王の変(729年)→藤原氏の策謀の始まり

    • 737年パンデミック→長屋王の怨霊・藤原四兄弟全滅

    • 広嗣の乱(740年)→式家の一時失墜

    • 安積親王急死(744年)→県犬養広刀自の子女の悲劇

    • 橘奈良麻呂の乱(757年)→聖武天皇の遺言を守ろう

    • 藤原仲麻呂の乱(764年)→南家の自滅

    • 称徳天皇の孤独→天武系最後の天皇の悲哀

    • 宇佐八幡神託事件(769年)→道鏡の悲劇

    • 光仁天皇擁立(770年)→北家vs式家の攻防

    • 井上内親王・他戸親王毒殺(775年)→百川の王殺し

    • 桓武天皇即位(781年)→異色の天皇誕生

    • 怨霊と御霊信仰→平安京遷都(794年)



    早良親王の悲劇は単なる政争の犠牲ではなく

     

    奈良時代(南都仏教天武系)vs平安時代(新王朝天智系)

    という時代の大転換の犠牲者でした。

    そして皮肉なことに——

    • 南都仏教を排除しようとした桓武天皇が

    • 南都仏教の高僧だった早良親王の怨霊に生涯悩まさ

    • その怨霊から逃げるように平安京へ遷都した

    奈良時代が最後の怨念を込めて平安時代へと時代を動かした

     

    種継暗殺事件は

    「式家の終わりの始まり・北家の台頭の始まり

    ・早良親王という最大の怨霊の誕生」

      という三重の意味を持つ

     

    藤原式家の勝利は長続きしなかった・・・その後

    出来事

    775

    井上内親王・他戸親王を毒殺

    779

    百川が48歳で急死

    781

    桓武天皇即位——式家の果実

    785

    種継が暗殺される

    810

    薬子の変で式家が没落

    842

    承和の変で式家が完全退場

     

    藤原式家は——

    これだけの功績を残しながら、その天皇たちの時代に自滅

     「式家が先に歴史の表舞台から退場する」

    参考:藤原式家

    「血系図」からみる歴史事件簿(23)光仁天皇即位770- yo3519’s blog

     

     

    藤原式家

     

     

    藤原式家の没落

     

    政治史として見ると——

    • 式家は810年薬子の変で没落

    • 842年承和の変で完全退場 →歴史の表舞台から消えた

    しかし血系図として見ると——

     ・乙牟漏(良継の娘)嵯峨天皇を産む →後の天皇家へ続く

     ・旅子(百川の娘) 淳和天皇を産む

    つまり式家は政治的には消えたが、

    その血は現在の皇室まで脈々と流れている——

     「式家の血は消えなかった」





 

「血系図」からみる歴史事件簿(25)氷上川継の謀反事件782年

「血系図」からみる歴史事件簿(25)氷上川継の謀反事件782



氷上川継は不破内親王と塩焼王の長男

  不破内親王(聖武天皇の娘・母は県犬養広刀自)と

  塩焼王の結婚は、天武系の血筋同士の結合であり、

  それゆえに権力者から常に危険視される存在でした。

782年 氷上川継は味方を集めて、朝廷を転覆させる謀反を計画

   一味の資人・大和乙人が川継の謀反計画を自白

   川継は裏門より逃亡するが捕らえられ→伊豆配流

   川継の伊豆配流に連座して、不破内親王は淡路国に配流



不破内親王の悲劇

764年:夫・塩焼王を殺される
769
年:呪詛事件で「厨女」に改名・居住禁止→冤罪復権

782年:息子・氷上川継の乱に連座→淡路配流
795
年:和泉国へ移送→消息不明

〇悲劇の第一章 道祖王廃太子事件

   不破内親王の夫・塩焼王の弟が道祖王(孝謙天皇皇太子)

757年 道祖王が廃太子される際、藤原仲麻呂は道祖王の邸を包囲

   道祖王は拷問を受けて獄死しました。

〇悲劇の第二章 塩焼王事件

742年頃 塩焼王が聖武天皇の勘気を蒙る

757年 皇太子候補に推されるも孝謙天皇に拒否される

    のち氷上真人姓を与えられて臣籍降下。

758年〜淳仁天皇の即位に伴って従三位に叙せられ公卿に 

   藤原仲麻呂に接近・急速に栄達,

763年 には中納言に

764年 仲麻呂の乱で「今帝」に担ぎ上げられ殺害される

  藤原仲麻呂の敗走に伴い孝謙上皇方の討伐軍に捕らえられ、

  近江国で藤原仲麻呂一家とともに殺害された。

〇悲劇の第三章 氷上志計志麻呂

769年 県犬養姉女らと共謀して不破内親王は称徳天皇を呪詛し、

  志計志麻呂を皇位につけようとしたとして、

  内親王の身位を廃され、厨真人厨女と改名させられた

  氷上志計志麻呂も母不破内親王の呪詛事件に連座

772年 呪詛事件は誣告による冤罪として、内親王に復帰

〇悲劇の第四章 氷上川継の乱

782年 氷上川継は味方を集めて、朝廷を転覆させる謀反を計画

   一味の資人・大和乙人が川継の謀反計画を自白

   川継は裏門より逃亡するが捕らえられ→伊豆配流

   川継の伊豆配流に連座して、不破内親王は淡路国に配流

 

不破内親王の母 県犬養氏とはどんな氏族か
大化改新の前後を通じて中級豪族に終始し、

古くから宮中に仕えてきた中堅の豪族という
県犬養氏からは藤原不比等の妻で元明天皇に仕えた

県犬養三千代が出ており、

広刀自が聖武天皇の夫人となった背景には、

県犬養氏の族長的立場にあった三千代の推挙があったのではないか。

 

県犬養広刀自の子女の悲劇 

安積親王17歳で急死(毒殺疑惑)

744年 安積親王が急死し聖武天皇の唯一の男子が消える
   広刀自と安宿媛(光明皇后)は同族でありながらライバル

井上内親王皇后廃位
 井上内親王は聖武天皇の第1皇女で、

721年わずか5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、

  6年後に伊勢に下向しました。

  つまり幼少期から神に仕える身として育った

  弟の安積親王の薨去により斎王の任を解かれ帰京しました。

770年異母妹の称徳天皇が崩御すると、夫の白壁王62歳が

  藤原百川や藤原永手の推挙によって第49代光仁天皇に即位

  これにより井上内親王は54歳で皇后となり、

  翌年には他戸親王も皇太子となりました。

772年光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、

  同年には他戸親王も皇太子を廃されました。
   (しかし他戸親王は次の天皇を約束された身分であり、

     高齢の光仁天皇を呪わずとも、そう遠くない将来に天皇となるため、

     巫蠱や厭魅を行ったことは疑わしいです。
     一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による

     他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力です)
773
年山部親王(後の桓武天皇)が立太子
773
年難波内親王を呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、

  他戸親王と共に庶人に落とされ没官の邸に幽閉された。

775年井上内親王・他戸親王が急逝

  (井上内親王が呪詛疑惑で廃后、他戸親王が廃太子となった一連の事件は

   山部親王の才能を見込んだ藤原百川の暗躍によるものとされています。)


不破内親王の苦難

764年夫・塩焼王を殺される
769
年呪詛事件で「厨女」に改名・居住禁止→冤罪復権

782年息子・氷上川継の乱に連座→淡路配流
795
年和泉国へ移送→消息不明

 

                              (CLOUD作成)

勝者:藤原百川(式家)と天智系・光仁天皇

770年 称徳天皇崩御→白壁王が光仁天皇に即位

   井上内親王が皇后・他戸親王が皇太子に

772年 藤原百川の策謀→井上内親王廃后・他戸親王廃太子

773年 山部親王(桓武天皇)が立太子

775年 井上内親王・他戸親王が幽閉先で同日急死

781年 桓武天皇即位

藤原氏の血を引かない者を排除し続けてきた構造が、

ここで皮肉にも「渡来人の血を引く天皇」を生み出すという結果になりました。

「血系図」からみる歴史事件簿(24)桓武天皇即位781年

「血系図」からみる歴史事件簿 (24)桓武天皇即位 781

光仁天皇の第一皇子(山部王)として737年に生まれた。

生母は百済系諸蕃氏族の和氏の出身である高野新笠

当初は皇族としてではなく官僚として大学頭や侍従に任じられた

770年 34歳の時に称徳天皇の崩御によって

  父の白壁王が皇位を継承する(光仁天皇)

  生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。

772年 皇太子の他戸親王と母の皇后の井上内親王が突如廃され

773年 山部王が皇太子とされた

781年 父から譲位されて天皇に即き(桓武天皇)

  同母弟の早良親王を皇太子と定めた

783年 藤原良継の娘の藤原乙牟漏を皇后とし、

  安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)が生まれる    

  百川の娘で夫人の藤原旅子には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。



なぜ異色の桓武天皇が誕生したのか

天武系皇族が絶滅状態だった

  770年称徳天皇の死によって天武天皇の皇統は途絶えました。

  長屋王の変から約40年間の藤原氏の「王殺し」の結果、

  天武系で皇位を継げる人物がほぼ消えていた

光仁天皇自身が異色の存在だった

  父・光仁天皇自身は62歳という異例の高齢で即位した天智系天皇

藤原百川の計算が全てを動かした

  実力者であった藤原百川らの後押しで皇太子へと進んだ

  反対の声があったにもかかわらず百川が強引に押し通したのは

  百川には自分の娘・旅子を妃にして外戚になるのが重要だった

桓武天皇自身が「異色」を逆手に取った

  桓武天皇は母の出自を逆手に取り百済との関係を強調することで

  皇統の正当性を主張しました。「百済王等は朕が外戚なり」

平安京遷都の真の意味

  平安京遷都の真の目的は桓武天皇による新しい皇統の樹立

  桓武天皇は自らの出自への強い自覚から天智天皇の血筋を強調し

  奈良時代とは異なる新しい皇統を打ち立てようとしました。

経過

729年 長屋王の変 藤原四兄弟が天武系を排除しようとした

40年間の「王殺し」で 天武系皇族が次々と消えていった

770年 称徳天皇崩御 天武系が完全に断絶

773年 桓武天皇立太子 渡来人の母を持つ異色の天皇が誕生

794年 平安京遷都 奈良時代とは全く異なる新しい時代へ

最大の皮肉

藤原氏が天武系を排除し続けた結果——

渡来人の血を引く桓武天皇という、誰も予想しなかった

「最も異色な天皇」が誕生した

「藤原氏の策謀が生み出した最大の皮肉」



桓武天皇即位で犠牲になった人々

直接の犠牲者
人物       関係          運命
井上内親王    光仁天皇の皇后     呪詛の冤罪→廃后→幽閉→775年急死
他戸親王     皇太子         母に連座→廃太子→幽閉→775年急死
早良親王     桓武天皇の皇太子    種継暗殺への関与を疑われ→廃太子→絶食死
                    (井上内親王・他戸親王の排除は百川)

間接的な犠牲者
人物            関係           運命
淡路廃帝(淳仁天皇)    仲麻呂が担いだ天皇    淡路に幽閉→765年怪死
道鏡            称徳天皇の寵臣      称徳崩御翌日に左遷→下野で客死
藤原種継          長岡京造営責任者     785年暗殺

他戸親王

  • 15歳で天皇になることを望んでもいない少年

  • 母が聖武天皇の娘というただ一点で消された

  • 自らは何もしていない 、

  • ただ「血筋」という宿命を背負って生まれた

  • その血筋ゆえに権力者に利用され消された

 →欲望もなく消えた若者たちの無念が怨霊となり

  欲望のままに動いた権力者たちを次々と祟り

  その恐怖が平安京遷都という歴史を動かした

 

桓武天皇の真の狙い——兄弟相続から親子相続へ

  • 安殿親王(後の平城天皇)が生まれていたがまだ幼かった

  • 桓武天皇が急死した場合に幼帝即位を避けるための「つなぎ」として早良親王を立太子

  • 早良親王は不婚・子なし——自分の子孫に皇位が移らないことが立太子の条件だった

 早良親王は最初から「使い捨て」の皇太子だった



「血系図」からみる歴史事件簿(23)光仁天皇即位770年

「血系図」からみる歴史事件簿 (23)光仁天皇即位 770

764年 白壁王は藤原仲麻呂の乱鎮圧に功績を挙げる

766年 大納言に昇進

  だが度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、

  白壁王は専ら酒を飲んで日々を過ごすことにより、

  凡庸・暗愚を装って難を逃れたと言われている。

770年 称徳天皇崩御→白壁王が第49代光仁天皇に即位(62歳)

  白壁王は天智天皇の嫡流にあたるが、

  妃の井上内親王は聖武天皇の皇女であり、

  他戸親王は天武天皇の血を引く男性皇族の一人であった。

770年 井上内親王が皇后に他戸親王が皇太子になる

773年 難波内親王を呪詛したという嫌疑で

  井上内親王は他戸親王と共に庶人に落とされ幽閉された。

(しかし他戸親王は次の天皇を約束された身分であり、

 高齢の光仁天皇を呪わずとも、そう遠くない将来に天皇となるため、

 巫蠱や厭魅を行ったことは疑わしい)

773年 山部親王(桓武天皇)が立太子

775年 井上内親王・他戸親王が幽閉先で同日急死

781年 桓武天皇即位



一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による

 他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力です。


藤原氏の血を引かない者を排除し続けてきた構造が、

ここで皮肉にも「渡来人の血を引く天皇」を生み出す

という結果になりました。

藤原式家が自分たちの利益のために担ぎ上げた桓武天皇が、

結果的に平安時代という新しい時代を開くことになるわけです。



井上内親王皇后 廃位・幽閉・急死(暗殺説)

井上内親王は聖武天皇の第1皇女

717年 井上内親王生まれる、聖武天皇の第一皇女。

   母は県犬養広刀自で、5歳で伊勢神宮の斎王に選ばれた。

744年 弟・安積親王の死去により斎王の任を解かれ帰京し、

  その後白壁王(光仁天皇)の妃となりました。

754年 酒人内親王を、761年に他戸親王を産みました。

  他戸親王は 父:光仁天皇(天智系)
        母:井上内親王(天武系・聖武天皇の娘)
  つまり天智系と天武系の両方の血を引く存在でした。

770年 異母妹の称徳天皇が崩御すると、

   夫の白壁王62歳が藤原百川や藤原永手の推挙によって

   第49代光仁天皇に即位しました。

  これにより井上内親王は54歳で皇后となる

771年 他戸親王が皇太子となる。

 (称徳天皇が皇嗣を定めないまま崩御した際、

 天武系の文室浄三次いで文室大市を推そうとした

 右大臣吉備真備を出し抜いて、

 従兄の左大臣藤原永手や兄藤原良継と謀って、

 皇嗣を定めた称徳天皇の宣命を偽造するなど、

 天智系の白壁王の擁立に尽力したとされるのが藤原百川)



井上内親王——皇后から怨霊へ

770年 光仁天皇の即位(井上内親王が皇后に)北家・永手が推挙

771年 藤原永手死去 藤原北家から藤原式家へ権力移動

772年 呪詛事件→井上内親王廃后・廃太子 式家・百川の陰謀

772年 酒人内親王が斎王に、娘も政治から切り離される

775年 幽閉先で他戸親王と同日に薨去。

  (この不自然な死には暗殺説や自殺説も根強い)

800年 死後25年で皇后復号←怨霊への恐怖



藤原百川の計画は——

第一段階 白壁王(光仁天皇)を擁立→山部王を皇太子にする

第二段階 井上内親王・他戸親王を呪詛事件で排除

第三段階 山部王(桓武天皇)を立太子

第四段階 百川の娘・旅子を桓武の妃に→式家が外戚に

藤原式家 Ⅰ

藤原式家 Ⅱ

藤原式家 Ⅲ



藤原式家の繁栄——そして皮肉な結末
百川の子の藤原緒嗣もわずか29歳で参議に昇進

長岡京の後に建設された平安京造宮と蝦夷征伐の中止を進言

嵯峨天皇を経百川の娘て旅子を母とする淳和天皇が即位すると

その外伯父として累進し右大臣ついで左大臣に至りました。



その後の藤原式家の衰退——栄華から退場まで

785年に 藤原種継が暗殺されると式家は一時的に後退し

  しばらくは南家の継縄・北家の内麻呂らが政権が主導。

810年 平城天皇は藤原仲成・薬子兄妹の意見をいれて

  国政に介入し「二所の朝廷」と称せられる事態が生じた

  嵯峨天皇は藤原仲成を射殺した。

  平城上皇は兵を従えて東国に赴こうとして失敗し、出家し

  薬子は自殺

藤原式家の主な人物

 

「血系図」からみる歴史事件簿(22)宇佐八幡宮神託事件769年

「血系図」からみる歴史事件簿 (22)宇佐八幡宮神託事件 769

宇佐八幡宮は全国にある八幡宮の総本社であり、奈良時代から朝廷の信頼が厚く「国家の一大事には宇佐に神の声を聞きに行け」と言われるほどの存在でした。

宇佐八幡宮と朝廷の関係

720 隼人の反乱→八幡神の加護で朝廷軍勝利

740 広嗣の乱→朝廷軍が戦勝祈願

749 大仏建立→金鉱発見の「奇跡」で権威確立

大仏建立への協力——塗金の工程が必要でしたが肝心の金が足りず      聖武天皇は悩んでいました。そんな中、宇佐神宮の神職から   

「八幡神自らがすべての神を率い己の身をなげうってでも大仏造立    成功させるであろう」

という八幡神の託宣が聖武天皇に奏上されたのです。

その託宣が現実になったかのように陸奥国で日本初となる金鉱が発見され大量の金が平城京に献上されました。

769 神託事件→道鏡の弟・浄人が大宰府から奏上

宇佐八幡宮の神託は道鏡の弟である弓削浄人

太宰府の神官・習宜阿曾麻呂によって奏上されました。

神様が「道鏡を天皇にすれば天下は平和になる」と言ったと主張

  • 弓削浄人:道鏡の実の弟・大宰帥(大宰府のトップ)

  • 習宜阿曾麻呂:大宰府の神官・宇佐との地縁がある

 

宇佐八幡神託事件——誰が何を仕組んだのか

 宇佐八幡宮を管轄する大宰府のトップが道鏡の弟 で

  • 大宰府の神官 習宜阿曾麻呂が神託を「でっちあげた」可能性

 藤原百川が裏で操った説

  藤原百川が道鏡を陥れるために習宜阿曾麻呂と

  和気清麻呂・広虫を影で操った

  百川の計算は——

習宜阿曾麻呂に神託を「道鏡即位を望む」内容で奏上させる

称徳天皇が確認の使者を送る

和気清麻呂が「皇族以外は不可」と正反対の神託を持ち帰る

称徳天皇が激怒→道鏡への信頼が揺らぐ

⑤道鏡の権威が失墜する

⑥自分が推す山部親王(桓武天皇)への道を開く

 

称徳天皇は後継者問題に深刻に悩んでいた

 称徳天皇は「朕一人が帝位を貪って皇太子を立てないのではなく、

 天の授けるところを待っているのであって、皇位について陰謀をめぐ   らすことはしてはならない」という詔を発していました。

 - 道鏡を皇位につけたかったかどうかは実は不明

 - 正直者の清麻呂を使者に選んだことが「公正な確認」を望んだ証拠

   天皇は和気清麻呂を使者として神意を確認させたところ

  「天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ」という神託を報告したため

  清麻呂と姉・広虫(法均)は処罰された

道鏡も神託を自ら仕組んだ証拠はない

取り巻き(浄人・阿曾麻呂)が勝手に動いた可能性がある

称徳天皇崩御後の処分が軽すぎる→積極的に皇位を望んでなかった?

道鏡は「悪僧」ではなく

- 孤独な女帝の心の空白を埋めた誠実な僧

- 藤原氏の権益を脅かしたがゆえに「悪」と描かれた

- 取り巻きの暴走と百川の策謀に巻き込まれた

- 勝者・桓武天皇側の「続日本紀」によって貶められた

結果

宇佐八幡宮神託事件の発端を作った習宜阿曾麻呂が左遷

道鏡の弟・浄人とその息子(広方・広田・広津)が土佐国に配流



称徳天皇は「道鏡に惑わされた愚かな女帝」ではなく

- 天武系皇族を次々と失った孤独の中で道鏡に心の支えを見出した

- 後継者問題に真剣に向き合っていた

- 百川の策謀によって裏をかかれた悲劇の女帝

皇統は天武天皇から87人天武系が続いたが、

称徳天皇亡き後天智系に変わった。

天武天皇から87人の天皇も実は天智天皇の血筋でした

 

皇孫は天智天皇系で続く

 

                      (CLOUD作成)

称徳天皇(孝謙天皇)は生涯独身で子を残しませんでした。
天武天皇の血を引く皇統は、ここで完全に途絶えます。

道鏡事件は有名ですが、血系図で見ると

「天武系の血を持つ最後の天皇が、皇族以外に皇位を渡そうとした」という絶望的な構図が見えてきます。

 

光仁天皇——忘れられた天智の血
称徳崩御後、藤原氏(特に藤原百川)が擁立したのが光仁天皇でした。

天武系の天皇たちは全員、母か祖母に天智の血を持っていました。
称徳天皇の父・聖武天皇の母は元明天皇——天智の娘です。
天武系と呼ばれた時代も、天智の血は一度も途切れていなかった。

壬申の乱は天智系と天武系の戦いでしたが、

皇統は一度も天智天皇の血から離れなかった。

壬申の乱で天智系を倒したはずの天武系皇統は、

最初から天智の娘(持統・元明)によって支えられていた。

 

大化の改新(645年)で蘇我氏は「滅ぼされた」とされますが、血系図で見れば蘇我の血は天皇家の中に生き続けていた。

滅びたのは蘇我氏という「家」であって、「血」ではなかった。

 

道鏡とは何者か
761
年に 近江保良宮で孝謙上皇が病気のとき道鏡は看病に侍して

   癒してから上皇の寵を得ました。

7649月 これをねたんだ藤原仲麻呂がに謀反を起こして敗死した後、         上皇は称徳天皇として再即位しました。

   道鏡は大臣禅師、翌年太政大臣禅師に任ぜられて政権を握り、

766年 法王に任ぜられ、供御は天皇に準ずるという史上空前絶後 

  の高位に昇りました。僧侶でありながら天皇に準ずる地位に就いた
770年  称徳天皇は53歳で亡くなりました。

称徳の後任に光仁天皇が決まると、道鏡は下野薬師寺別当に左遷され、 772年 下野国で没しました。

そして称徳天皇崩御後に清麻呂・広虫はすぐに赦免・復権しています。

 



「血系図」からみる歴史事件簿(21)藤原仲麻呂の乱764年

「血系図」からみる歴史事件簿 (21)藤原仲麻呂の乱 764

藤原仲麻呂が淳仁天皇を担ぎ上げた
道鏡が孝謙上皇の寵を得た
その対立が仲麻呂の乱を引き起こした

764年 淳仁天皇と結んだ藤原仲麻呂は次第に窮地に陥り、

 藤原仲麻呂の乱を起こしました。

 孝謙上皇はこれを討滅し、道鏡を大臣禅師に任じ、

 淳仁天皇を廃して淡路に流し、みずから重祚しました(称徳天皇)

   重祚とは一度退位した天皇が再び天皇の位に就くことです。

    日本の歴史においてたったの2人しかおらず、ともに女帝で、

    1人は皇極天皇、もう1人が孝謙天皇です。

 

藤原仲麻呂の乱——なぜあっけなく敗れたのか

敗因①——謀反の密告があり、孝謙上皇は先手を打って

 淳仁天皇のもとにあった鈴印を回収

 仲麻呂の子訓儒麻呂はいちどは鈴印を奪回したが、

 授刀衛の坂上苅田麻呂らに射殺された。

 天皇のもとにあるべき御璽や駅鈴を奪われると

 仲麻呂は反旗を掲げることとなり、平城京を脱出します。

 鈴印を死守した孝謙上皇は官軍として大義名分を得る

 鈴印を失った仲麻呂は「朝敵」になった——これが最初の誤算

 淳仁天皇を連れ出せなかった——これが致命傷

敗因②——致命的な情報漏洩

 7649月 藤原仲麻呂の動員令は動員を指示された高丘比良麻呂

        らの密告により事前に露見した。

敗因③——授刀衛を失っていた

 7646月 授刀衛の仲麻呂娘婿の藤原御楯が急死します。

 授刀衛は元々皇太子時代の孝謙上皇の護衛を司ってきた部隊

 御楯の死によって上皇側が影響力を回復して

 その後の乱でも上皇軍の主力部隊として活躍することになりました。

敗因④——近江への逃走で 「孤独な逃亡」に

 仲麻呂に味方する者はほとんどおらず孤独な逃亡でした。

 757年に橘奈良麻呂の乱で440名粛清→反対勢力を一掃

                誰も助けに来なかった

 918日に捕らえられ家族ともども斬首されました。

 8日間の戦闘は孝謙側の圧倒的な勝利で終わったのです。



吉備真備は70歳の老将だった

孝謙上皇は当時造東大寺司長官であった吉備真備を召して

仲麻呂誅伐を命じ、ただちに追討軍を派兵させました。

かつて朝廷の要職を歴任した真備だが、

仲麻呂のために久しく逆境にあった。

老齢でありながら在唐中に取得した軍学の知識を買われ任じられた。

  • 唐で18年間学んだ兵学・軍略の知識

  • 仲麻呂に左遷されていた恨みと反骨心

  • そして何より先手を打つ戦略の的確さ

真備の戦術は——

内容

第一手

橋を焼き落として仲麻呂の近江入りを阻止

第二手

越前国に先回りして息子・辛加知を討つ

第三手

琵琶湖に追い詰めて包囲



仲麻呂が動くより先に常に手を打った——これが真備の強さでした。

藤原広嗣が「吉備真備を排除せよ」と挙兵したその相手が、

24年後に仲麻呂を追い詰める将軍になった——歴史の皮肉

 

流れ

749年 聖武天皇が譲位→孝謙天皇(46代)即位

758年 藤原仲麻呂の主導で淳仁天皇(47代)に譲位

762年 道鏡問題で孝謙上皇と淳仁天皇が対立

764年 藤原仲麻呂の乱→仲麻呂討滅・淳仁天皇廃位

764年 称徳天皇(48代)として再即位

770年 称徳天皇崩御→天武系の皇統が断絶

称徳天皇が770年に崩御すると、天武系の皇統が完全に断絶し、

藤原百川が光仁天皇(天智系)を擁立する

——これが奈良時代の権力闘争の最終章の始まり

  天武系:全滅
  藤原南家・北家:一時没落
  道鏡:追放

  勝者:藤原百川(式家)と天智系・光仁天皇





「血系図」からみる歴史事件簿(20)淳仁天皇即位758年

「血系図」からみる歴史事件簿 (20)淳仁天皇即位 758

孝謙天皇が譲位した経緯
聖武太上天皇の崩後、遺詔による皇太子道祖王を廃して、

藤原仲麻呂と親しい大炊王を立て、

758年 淳仁天皇に位を譲りました。

  淳仁天皇は天武天皇の孫・舎人親王の第7子で、諱は大炊王です。

  藤原仲麻呂の長子・真従の未亡人を妻とし、

  仲麻呂の邸宅に住んでいたため、

  仲麻呂が淳仁天皇 即位を望みました。
  つまり淳仁天皇は藤原仲麻呂が担ぎ上げた天皇だったわけです。


対立の始まり——道鏡の登場
保良宮で上皇が看病僧道鏡を寵愛したのが起因となりました。

平城宮に還御すると淳仁天皇は中宮院に、

孝謙上皇は法華寺にと別居し、

孝謙上皇は国家の大事・賞罰のことを行うと宣言しました。

ここで事実上二頭政治の状態になりました。


淳仁天皇と結んだ藤原仲麻呂は次第に窮地に陥り、

7649月に兵乱(恵美押勝の乱)を起こしました。

孝謙上皇はこれを討滅し、道鏡を大臣禅師に任じ、

淳仁天皇を廃して淡路に流し、みずから重祚しました(称徳天皇)

淡路に幽閉された淳仁天皇は

76510月 配所を逃亡して捕えられ、同月23日に没しました。

      33歳でした。淡路廃帝と称されます。



道鏡は——河内国の中堅豪族・弓削氏の出身

弓削氏は物部氏の一族で、物部守屋が弓削大連と称して以降、

その子孫が弓削氏を称したとされます。

物部守屋は587年に蘇我馬子に滅ぼされた反仏教派の巨頭でした。

その子孫が弓削氏として生き延び、

170年後に道鏡という仏教の法王を生み出したという歴史の皮肉


道鏡は葛城山での厳しい修行、サンスクリット語に通じた高い学識
東大寺との縁で宮中の内道場へ入る

藤原氏でも皇族でもないという点で、

称徳天皇と共通した孤独を持つ人物

761年 近江の保良宮に移御していた孝謙太上天皇が病になった際に、

  宿曜秘法という星の神々に祈る術でその病を癒やし、

  厚い信任を得て孝謙太上天皇に近侍するようになりました。

     「宿曜秘法」星の神々に祈る密教的な術で孝謙上皇の病を癒した。

764年 大臣禅師 政界進出

765年 太政大臣禅師 政治の頂点

766年 法王(宗教上天皇を凌ぐ地位)につく

769年 宇佐八幡神託事件 皇位を狙うも失敗

失脚と悲しい晩年
称徳天皇崩御後、次の皇位を巡る勢力争いの中、

道鏡は新たに即位した光仁天皇によって政界から離され、

下野国の薬師寺別当という僻地の職へ配されました。

その後まもなく、道鏡はこの地で死を迎えた

「悪僧・道鏡」という像は——
藤原氏が憎んだのは道鏡が「悪」だったからではなく、

藤原氏の権益を脅かす存在だったから
勝者・桓武天皇側が編纂した「続日本紀」が作り上げた像


ここでも「歴史は勝者によって書かれる」