「血系図」からみる歴史事件簿 (26)藤原種継暗殺事件 785年

藤原種継は藤原式家・藤原宇合の孫で 長岡京遷都の責任者。
桓武天皇を天皇の座へと押し上げた藤原百川の甥にあたります。
-
藤原百川(式家)→桓武天皇を擁立した人物
-
藤原種継(百川の甥)→桓武天皇に最も信頼された人物
藤原種継暗殺事件 の経緯
785年9月23日夜 長岡京造営の責任者・藤原種継が
何者かに矢で射られ重傷を負い翌日自邸で息を引き取った。
実行犯として伯耆桴麻呂らが直ちに捕らえられた。
首謀者として大伴継人・竹良が逮捕されました。
さらに佐伯高成・多治比浜人も捕らえられ
春宮坊に仕える者たちに容疑者が多いことが判明し
東宮大夫の大伴家持が黒幕とされた
——しかし大伴家持は事件の1ヶ月前に死亡していた
**万葉集との意外な関係**
-
尋問の結果事件の首謀者は約一ヶ月前に多賀城で死去した
大伴氏の最長老大伴家持ということになった。
家持はその生前に遡っての名誉の剥奪。
この時点で家持が最終的に編纂に関わったと推定される
「万葉集」は確実に封印されたでしょう。
このことが結果的に「万葉集」を確実に後世へ遺した。
-
藤原種継暗殺事件 の要因
①種継主導の下の遷都や人事などをめぐって
藤原氏と大伴・佐伯両氏との根深い対立がありました。
大伴・佐伯氏という古い豪族が藤原式家の台頭に憤慨
大伴・佐伯氏は——
-
奈良時代以前からの古い豪族
-
藤原氏台頭以前の名門
-
種継の強引な長岡京遷都に強く反発
-
自分たちの権益が削られることへの怒り
②桓武天皇が事件を利用した
種継襲撃事件を利用、自身の子である安殿親王の安泰を図り
不安要素である早良皇太子を除こうとする桓武の意思。
③藤原北家が仕掛けた
中納言藤原小黒麻呂は早良親王の謀叛を強く主張しました。
種継暗殺事件の全体像
-
実行犯:大伴・佐伯氏の古い豪族の怒りの暴発
-
被害者:藤原式家・種継
-
冤罪:早良親王(動機すらなかった)
-
漁夫の利:藤原北家・小黒麻呂が廃太子を主導
-
最終的な勝者:藤原北家
藤原種継暗殺事件の早良親王
785年9月23日 藤原種継が矢で射られて暗殺され
容疑者十数名が捕らえられ、
その中に早良親王が含まれていた。
早良親王は皇族のため淡路国へ流罪となりましたが
途中の乙訓寺に幽閉され食を断って死亡した。
○○早良親王とはどんな人物か○○
早良親王は光仁天皇の皇子で母は高野新笠、桓武天皇の同母弟
早良親王は11歳で出家し修練・修行を重ね
大安寺東院に移り高僧になっていました
781年 32歳のとき兄である桓武天皇が即位した際に
父光仁天皇の勧めにより還俗し立太子された。
早良親王は平城京の寺院勢力と強い結びつきがあった
785年 藤原種継暗殺への関与——冤罪の可能性が高い
早良親王や春宮坊関係者と寵臣の藤原種継の対立
桓武天皇は東大寺など南都と因縁の深い早良親王とは
融合出来なかった
早良親王の過酷な最期
早良親王は廃位され、乙訓寺に幽閉された。
-
弁明の機会が全く与えられなかった
-
幽閉中に絶食して無実を訴えた
-
配流の途中で息絶えた
-
遺体がそのまま路傍に埋葬された
**過酷―早良親王最期の真相——**
第一層:表向きの理由 種継暗殺事件への関与疑惑
第二層:桓武天皇の本音
種継襲撃事件を利用して自身の子である安殿親王
の安泰を図り早良皇太子を除こうとした
第三層:最も深い理由
早良親王と南都仏教対桓武天皇との根本的な対立
早良親王は南都仏教の象徴
桓武天皇が最も排除したかった「奈良時代の遺物」でした
早良親王:怨霊の祟り——桓武天皇を苦しめた災厄の連鎖
早良親王が憤死した3年後から
桓武の宮廷内では次々と不幸な出来事が起きた。
788年6月に桓武妃・藤原旅子が30歳で没しました。
790年4月には皇后・藤原乙牟漏も30歳で亡くなりました。
同年1月には母の高野新笠までもが薨去しました。
安殿皇太子も体調がすぐれず陰陽師に占わせたところ
早良親王の祟りと出ました。
桓武天皇はこれを聞き早良親王の怨霊をとくに恐れた。
そこで人心の一新を図るべく
794年 平安京に遷都しました。
流れ
-
長屋王の変(729年)→藤原氏の策謀の始まり
-
737年パンデミック→長屋王の怨霊・藤原四兄弟全滅
-
広嗣の乱(740年)→式家の一時失墜
-
安積親王急死(744年)→県犬養広刀自の子女の悲劇
-
橘奈良麻呂の乱(757年)→聖武天皇の遺言を守ろう
-
藤原仲麻呂の乱(764年)→南家の自滅
-
称徳天皇の孤独→天武系最後の天皇の悲哀
-
宇佐八幡神託事件(769年)→道鏡の悲劇
-
光仁天皇擁立(770年)→北家vs式家の攻防
-
井上内親王・他戸親王毒殺(775年)→百川の王殺し
-
桓武天皇即位(781年)→異色の天皇誕生
-
怨霊と御霊信仰→平安京遷都(794年)
早良親王の悲劇は単なる政争の犠牲ではなく
奈良時代(南都仏教天武系)vs平安時代(新王朝天智系)
という時代の大転換の犠牲者でした。
そして皮肉なことに——
-
南都仏教を排除しようとした桓武天皇が
-
南都仏教の高僧だった早良親王の怨霊に生涯悩まさ
-
その怨霊から逃げるように平安京へ遷都した
奈良時代が最後の怨念を込めて平安時代へと時代を動かした
種継暗殺事件は
「式家の終わりの始まり・北家の台頭の始まり
・早良親王という最大の怨霊の誕生」
という三重の意味を持つ
藤原式家の勝利は長続きしなかった・・・その後
年
出来事
775年
井上内親王・他戸親王を毒殺
779年
百川が48歳で急死
781年
桓武天皇即位——式家の果実
785年
種継が暗殺される
810年
薬子の変で式家が没落
842年
承和の変で式家が完全退場
藤原式家は——
これだけの功績を残しながら、その天皇たちの時代に自滅
「式家が先に歴史の表舞台から退場する」
参考:藤原式家
「血系図」からみる歴史事件簿(23)光仁天皇即位770年 - yo3519’s blog
藤原式家

藤原式家の没落
政治史として見ると——
-
式家は810年薬子の変で没落
-
842年承和の変で完全退場 →歴史の表舞台から消えた
しかし血系図として見ると——
・乙牟漏(良継の娘)嵯峨天皇を産む →後の天皇家へ続く
・旅子(百川の娘) 淳和天皇を産む
つまり式家は政治的には消えたが、
その血は現在の皇室まで脈々と流れている——
「式家の血は消えなかった」
-















