「血系図」からみる歴史事件簿(30)承和の変842年

「血系図」からみる歴史事件簿 (30)承和の変 842

 

参考:809年 嵯峨天皇即位

参考:823年 淳和天皇即位

参考:833年 仁明天皇即位

842年 嵯峨上皇死去

842年 承和の変 恒貞親王が廃太子になる

   仁明天皇の皇太子恒貞親王は淳和天皇の子であり、

   嵯峨天皇の孫、

   血筋としてはまったく問題のない“正統な皇太子”だった



承和の変の発端

伴健岑が阿保親王と接触し反乱計画を持ち掛ける

  ↓

阿保親王はこの話を檀林皇后(嵯峨天皇の皇后)に報告

  ↓

檀林皇后は藤原良房を通じて仁明天皇に伝える

  ↓

東宮職の伴健岑と 橘逸勢は逮捕され、恒貞親王が廃太子になる



承和の変で失脚した主要人物
1
 恒貞親王:政治的基盤を支える立場の東宮職の中核が失脚

       恒貞親王は廃太子となる。 

2 橘逸勢:三筆の一人として有名な文化人。
     “謀反関与”として流罪(隠岐へ)

3
 伴健岑:伴氏は古い名門で、嵯峨上皇の信任が厚かった。
     “謀反関与”として流罪(隠岐へ)


その他:藤原愛発:大納言 式家の有力者

         伊豆へ 流罪

皇太子廃立の連鎖

810年高岳親王(兄)廃太子→842年阿保親王(弟)が関与し→
                恒貞親王(淳和系)廃太子
という 皇太子廃立の連鎖 が起きた。

兄:高岳親王(平城天皇の皇子)
 → 嵯峨天皇の皇太子

 →母の出身が低い
 → 810年薬子の変で廃太子

弟:阿保親王
 → 平城系統の皇子
 → 842年恒貞親王の東宮職の周囲に関わる

 →在原氏・高階氏・大江氏の祖となる

参考:在原氏

参考:高階氏

皇太子:恒貞親王(淳和天皇の皇子)

 →嵯峨天皇の孫

 →母は嵯峨天皇の娘

 →東宮職崩壊
 →842年恒貞親王廃太子

   承和の変で失脚したのは東宮職の官僚たちで、
   恒貞親王自身は 罪を問われていない。
   出家し 高岳親王のもとに行く
   名誉を汚されていない“静かな排除”

     これが怨念化しなかった理由。

檀林皇后(橘嘉智子) 
 → 嵯峨天皇の皇后
 → 宮廷文化の象徴
 → 政治的判断力の高い女性

正子内親王
 → 檀林皇后の娘
 → 淳和天皇の皇后
 → 恒貞親王の母
仁明天皇(正子内親王の弟)
 → 檀林皇后の子
 → 良房が政治的に取り込んだ天皇


「血系図にして初めてわかる視点」
承和の変は“事件の表面”ではなく

皇統の流れそのもの を見ないと本質が見えない。

承和の変は「政敵を一掃するための政治事件」
式家の藤原愛発 嵯峨院政の伴健岑 文化人の橘逸勢
これらを「謀反関与」として流罪にし、
恒貞親王の政治的基盤(東宮職)を崩壊させた。

藤原良房が政敵を一掃するために利用した“政治事件”?
しかし実態は不明で、良房の操作の可能性が高い
血縁を政治の武器にする” という北家の伝統を極限まで強化した。
これらは後の藤原基経・忠平・道長へと続く摂関政治の基礎構造。

良房は、平安前期の政治を「藤原北家の独占体制」に作り変えた人物。
そのやり方は、武力ではなく、人事・婚姻・事件操作・院政の利用
という“静かで冷たい政治技術”だった。

良房の政治の中心は 娘・順子を仁明天皇に入れ
順子は道康親王(のちの文徳天皇)を産み

良房は「皇太子の外祖父」になる
皇位継承に直接影響力を持つ


正子内親王は、
嵯峨天皇の“直系の娘”であり、淳和天皇の皇后。

正子内親王は檀林皇后の娘ですが、

母が恒貞親王の関与を仁明天皇に訴えたのを

正子内親王は泣いて抗議したとも伝えられている

檀林皇后:政治的危機を仁明天皇に伝える
   娘(正子)と息子(仁明)と孫(恒貞)
   この三者の中心に立つ女性

   檀林皇后は、“政治の母”としての判断を優先した。
正子内親王:息子を守りたい一心で泣いて母に抗議する
   血筋(桓武天皇直系)夫(淳和)子(恒貞)が大切



「血系図」からみる歴史事件簿(29)平城太上天皇の変810年

「血系図」からみる歴史事件簿(29)平城太上天皇の変810

 

51代平城天皇

 



 

平城太上天皇の変

806年 安殿親王が即位 → 平城天皇となる。

807年 伊予親王事件(伊予親王と母・吉子が排除される)

809年 平城天皇は嵯峨天皇に譲位、

   平城太上天皇として政治に関与する

 

810年 平城太上天皇と嵯峨天皇が対立する

   平城太上天皇は薬子(藤原仲成の姉)とともに、

  「平城京への遷都」=実質的な復位 を企てる。



結果は 嵯峨天皇側が勝利

嵯峨天皇は809年「蔵人所」を設置する。

 (令外官 ─ 新しい役所のしくみ)

 律令にはない新しい役職(令外官)が次々と置かれました。

 天皇の秘書役である蔵人頭、都の警察 ・裁判を担う検非違使などです。

 これらを足がかりに、藤原北家は他の貴族を退けて権力を固めていきます。

 

  蔵人頭に任命されたのが藤原冬嗣(北家)。

  つまり嵯峨天皇は、 冬嗣に詔勅権を握らせて、   

  薬子の影響力を切断する準備をしていた。

  平城太上天皇の変が勃発したとき、

  嵯峨天皇側の軍事動員は“異常な速さ”だった。

  • 兵士の召集

  • 交通路の封鎖

  • 平城京への進軍

  • 仲成の処刑

  • 薬子の追討

これらが 数日のうちに完了している。

普通の反乱なら、こんな速度はありえない。

つまり嵯峨天皇側は 事前にシナリオを準備していた可能性がある

嵯峨天皇側(勝者)

  • 嵯峨天皇(現職)

  • 藤原冬嗣(北家):蔵人頭として嵯峨政権の中枢を握る

  • 坂上田村麻呂:軍事指揮官として平城側を封鎖・制圧

  • 紀田上・藤原真夏など嵯峨側官人

  → 軍事・官僚・詔勅の発給権を完全に掌握し、平城側を圧倒。

平城上皇側(敗者)

  • 平城上皇(前天皇)

  • 藤原薬子(式家):尚侍として詔勅発給権を握る

  • 藤原仲成(式家):遷都強行の中心人物、処刑される

  • 平城京に残った旧官人たち

  → 遷都詔を出すが、嵯峨側の迅速な封鎖で失敗。

   薬子は自害、仲成は射殺。



平城太上天皇は出家して政治的に完全に排除される。

平城天皇の子高岳親王(嵯峨天皇の皇太子)も廃される。

 → 大伴親王(旅子の子)が皇太子に昇格。



 

歴史は流れる。

事件は 権力を握った者が流れを変えた結果として起きる。

平城太上天皇の変はその典型で、

  • 平城天皇は流れを戻そうとした

  • 嵯峨天皇は流れを前へ進めようとした

  • 北家は流れを自分たちの方向へ曲げた

     

    蔵人頭に任命されたのが藤原冬嗣。

      詔勅の起草

      天皇の意思の伝達

      官人への命令の発布

    これらを冬嗣が握ったことで、

    政治の“言葉の流れ”が北家の手に入った。

    詔勅を握る者が政治を握る。 ここが北家躍進の出発点。

平城太上天皇の変は軍事衝突のように見えるけれど、

本質は 「詔勅を誰が出せるか」 の争い。

  •  

「血系図」からみる歴史事件簿(28)伊予親王事件807年

「血系図」からみる歴史事件簿 (28)伊予親王事件 807



785年 長岡京造営の最中に種継が暗殺される。

  この事件で連座を疑われた早良親王が憤死し

  桓武天皇の皇太子が早良親王から安殿親王に移る

しかし第1皇子安殿親王は病弱で、 皇位継承は不安定だった。

 

皇位継承候補は多くいた

     第2皇子 伊予親王(母:南家藤原是公の娘吉子)

     第3皇子 葛原親王(母:多治比真宗)

     第4皇子 神野親王(母:式家藤原良継の娘乙牟漏)

     第5皇子 大伴親王(母:式家藤原百川の娘旅子) 

     第6皇子 万多親王(母:北家藤原鷲取の娘小屎)    

藤原良継の娘乙牟漏は、 安殿親王・神野親王 の母

桓武天皇の皇后であり、式家の血筋を皇統に直接つなぐ存在。

平城天皇

在原氏

 

  伊予親王事件の経緯

785年 藤原種継暗殺事件と早良親王の憤死

  早良親王は桓武の同母弟であったが、

  政争の渦中で非業の死を遂げ、 桓武はその死の怨念に苦しむ。

794年 平安京遷都

  桓武は早良親王の怨念を恐れ、長岡京から平安京に都を移す。

806年 桓武天皇崩御

  安殿親王が平城天皇として即位

  同母弟第4皇子神野親王が皇太子になる(のちの嵯峨天皇) 

807年 伊予親王に謀反の嫌疑がかけられる

  藤原宗成に謀反を勧められたと反論するが認められず

  母・吉子とともに川原寺に幽閉され、自害へ追い込まれた。

  伊予親王の母 吉子 は藤原南家の出身。

  南家は仲麻呂の乱後、政治的影響力を失っていた。

この事件で藤原南家人々は多くが処罰され、勢力は後退した

   南家藤原雄友:大納言、伊豆に配流

   南家藤原乙叡:中納言を剝奪

   南家藤原友人:下野へ左遷

   北家藤原宗成:流刑

 

伊予親王

  • 皇位候補ではない

  • しかし桓武の血を引く

  • 政争に利用される可能性がある

  • 母・吉子は南家の血筋で式家と対立関係

伊予親王事件→ 桓武系の南家の皇子を排除 →

 式家旅子の血筋(淳和天皇)と北家の利害が一致→

 次の皇位候補に 大伴親王が浮上する





「血系図」からみる歴史事件簿(27)平安京遷都794年

「血系図」からみる歴史事件簿 (27)平安京遷都 794

桓武天皇なぜ長岡京を諦めて平安京へ遷都したのか

早良親王の怨霊——心理的な打撃

 早良親王が憤死した3年後から

 桓武天皇の周りでは次々と不幸な出来事が起きました。

 7886月に桓武妃・藤原旅子が30歳で没す。

 7904月には皇后・藤原乙牟漏も30歳で亡くなった。

 さらに 安殿親王(のちの平城天皇)が病に倒れ、

 陰陽師が占うと「早良親王の祟り」という結果が出ました。

大洪水——物理的な打撃

 792年長岡京は二度も大きな洪水に襲われてしまいます。

長岡京造営の遅滞——最も現実的な理由

  • 種継暗殺後に長岡京造営の推進力が失われた

  • 種継という優秀な責任者を失って工事が停滞

  • 長岡京はもともと完成していないまま遷都した突貫工事の都

  • 造営を続けるより新しい都を作る方が合理的と判断

和気清麻呂の進言が決定打

 和気清麻呂の建議により新しい都を求めることになった。

 (宇佐八幡神託事件で注目された和気清麻呂)

 

歴代天皇~桓武天皇まで

794平安京遷都の真の意味

  平安京遷都の真の目的は桓武天皇による新しい皇統の樹立

  桓武天皇は自らの出自への強い自覚から

    天智天皇の血筋を強調し

  奈良時代とは異なる新しい皇統を打ち立てようとしました。

     *桓武天皇は蘇我氏の血筋も藤原不比等の血筋もひかない

   *外来人を母にもつ異色の天皇となった

 

経過

729年 長屋王の変 藤原四兄弟が天武系を排除しようとした

  ↓

40年間の「王殺し」で 天武系皇族が次々と消えていった

  ↓

770年 称徳天皇崩御 天武系が完全に断絶

  ↓

773年 桓武天皇立太子 渡来人の母を持つ異色の天皇が誕生

  ↓

794年 平安京遷都 奈良時代とは全く異なる新しい時代へ

平安京遷都への道は一本ではなかった

第一の道——早良親王の怨霊

   藤原種継暗殺→早良親王廃太子・絶食死→怨霊

第二の道——井上内親王・他戸親王の怨霊

   百川の冤罪→母子幽閉・同日急死→怨霊→長岡京断念

第三の道——犬養広刀自の子らの悲劇

   基皇子夭折→安積親王急死→不破内親王・氷上川継配流

 →怨念の連鎖→平安京遷都

 三本の道が一点に収束する——794年平安京遷都

 

何故平安京か

京都の風水構造

**京都は「四神相応」の地形を持つ“結界都市”。

怨霊の侵入を防ぎ、王権を守るために設計された。

- **玄武(北)** — 比叡山

北からの冷気・魔を防ぐ“背山”。

延暦寺を置き、最強の霊的防御を形成。

- **青龍(東)** — 鴨川

流れる水は生命力と浄化を象徴。

怨念を流し去る役割。

- **白虎(西)** — 桂川

西の乾燥した気を調整し、都市のバランスを保つ。

- **朱雀(南)** — 平地(南向き)

都の正門方向。南は陽の気が入り、繁栄を呼ぶ。

           


鬼門封じ:京都の“怨霊対策”の核心

- 鬼門(北東)ここに 比叡山延暦寺(最強の結界)を配置。

- 北東の裏鬼門には **石清水八幡宮**

- 都の中心には **神泉苑(雨乞い・怨霊鎮め)**

- 南には **羅城門(魔の侵入口)**

- 西には **松尾大社(酒・水の守護)**

これらが **多層の結界網** を形成している。

 

京都の風水は「皇統を守る構造」

京都は 怨霊の侵入を防ぐ

   - 王権の正統性を支える

   - 都の繁栄を維持する

   - 皇統の安定を祈祷で補強する

 

*******************

AIに聞いてみました

平安京は現在でも「都」なのはどうして?

明治政府は、天皇を東京に移したが「遷都」とは言わなかった

法律上、日本には“首都を定める規定”が存在しない

そのため、古代以来の「都=平安京」という名称は法的に消えなかった

 

AIに聞いてみました

天皇は「都」から離れても守られているのか?

明治政府は、 天皇を国家の中心に据える“制度”を作った。

  • 皇室典範

  • 国家神道

  • 教育勅語

  • 天皇を「国体」の中心とする思想

これらによって、 皇室は土地の霊性ではなく、

国家制度によって守られる存在になった。

つまり、

京都の結界がなくても皇室は存続できる構造が作られた。

日本は“二重の都”を持つことになった

  • 政治の中心=東京

  • 天皇の住まい=東京(皇居)

  • 歴史上の都=京都(平安京)

  • 文化の中心=京都

この奇妙な構造は明治政府が天皇を東京に置いたことから始まった。

 

平安京という“都”の伝統はあまりにも重い。

  • 千年以上の歴史

  • 皇室文化

  • 公家社会

  • 神社仏閣の中心

これを「遷都」と言えば、 京都の反発は避けられない。

だから政府は 「遷都」という言葉を使わず、

天皇だけを東京に移した。

京都は“都”という概念を保持したまま天皇は東京へ移った。

明治政府は天皇を“権威の源泉”として必要とした

江戸幕府を倒したばかりの新政府は、

まだ全国の支持を固めていなかった。

そのため、 「天皇の名のもとに政治を行う」

という形を作る必要があった。

天皇が京都に残ったままでは、

新政府は「地方政権」に見えてしまう。

これは、天皇を政治の“象徴”として利用したということ。

明治政府は天皇を政治的正統性の象徴として東京に置く必要があった。

天皇が京都に残ってしまえば、 新政府の権威は弱くなる。

これは 「政治的に天皇を拘束した」 と言ってもいい構造。

古代:天皇の住まう場所=政治の中心=都

近代:政治の中心=首都(東京)

  • 政府機能

  • 国会

  • 外交

  • 軍事

  • 経済 これらが巨大化して、 天皇の住まいだけでは

    都”を定義できなくなった。

現代:歴史上の都=京都(平安京)

 

都は「政治の中心」ではなく「歴史上の名称」になった

奈良以前は、 天皇が代わるたびに都を移すことで

  • 前の天皇の“穢れ”を避ける

  • 新しい政治を始める象徴

  • 地域の豪族勢力を避ける というメリットがあった。

でも、時代が進むにつれて 遷都は巨大な負担になりすぎた。

 

平安京が都として残った理由

- 風水的に最強(四神相応)

- 怨霊封じの結界都市

- 長期政権向きの地形

- 公家社会・文化の蓄積

- 明治政府が「遷都」と言わなかったため、名称が残存



天皇が東京へ移った結果

新政府が天皇の権威を必要としたため。

政治の実務ではなく、正統性の象徴として東京に置かれた。→

その結果、霊的な守りは弱くなる

実際、

- 皇族の数は減少

- 皇室の病気・不幸が多い

- 皇統の継続が危機的

こうした現象を「結界を離れた影響」と見る研究者もいる。

 

 

「血系図」からみる歴史事件簿(26)藤原種継暗殺事件785年

「血系図」からみる歴史事件簿 (26)藤原種継暗殺事件 785

 

藤原種継は藤原式家・藤原宇合の孫で 長岡京遷都の責任者。

桓武天皇を天皇の座へと押し上げた藤原百川の甥にあたります。

  • 藤原百川(式家)→桓武天皇を擁立した人物

  • 藤原種継(百川の甥)→桓武天皇に最も信頼された人物

        

藤原種継暗殺事件 の経緯

785923日夜 長岡京造営の責任者・藤原種継が

  何者かに矢で射られ重傷を負い翌日自邸で息を引き取った。

  実行犯として伯耆桴麻呂らが直ちに捕らえられた。

  首謀者として大伴継人・竹良が逮捕されました。

  さらに佐伯高成・多治比浜人も捕らえられ

  春宮坊に仕える者たちに容疑者が多いことが判明し

  東宮大夫の大伴家持が黒幕とされた

  ——しかし大伴家持は事件の1ヶ月前に死亡していた

**万葉集との意外な関係**

  • 尋問の結果事件の首謀者は約一ヶ月前に多賀城で死去した

    大伴氏の最長老大伴家持ということになった。

    家持はその生前に遡っての名誉の剥奪。

    この時点で家持が最終的に編纂に関わったと推定される

    「万葉集」は確実に封印されたでしょう。

    このことが結果的に「万葉集」を確実に後世へ遺した。

  • 藤原種継暗殺事件 の要因

種継主導の下の遷都や人事などをめぐって

 藤原氏と大伴・佐伯両氏との根深い対立がありました。

 大伴・佐伯氏という古い豪族が藤原式家の台頭に憤慨

大伴・佐伯氏は——

  • 奈良時代以前からの古い豪族

  • 藤原氏台頭以前の名門

  • 種継の強引な長岡京遷都に強く反発

  • 自分たちの権益が削られることへの怒り

桓武天皇が事件を利用した

 種継襲撃事件を利用、自身の子である安殿親王の安泰を図り

 不安要素である早良皇太子を除こうとする桓武の意思。

藤原北家が仕掛けた

 中納言藤原小黒麻呂は早良親王の謀叛を強く主張しました。

 

種継暗殺事件の全体像

  • 実行犯:大伴・佐伯氏の古い豪族の怒りの暴発

  • 被害者:藤原式家・種継

  • 冤罪:早良親王(動機すらなかった)

  • 漁夫の利:藤原北家・小黒麻呂が廃太子を主導

  • 最終的な勝者:藤原北家

藤原種継暗殺事件の早良親王

785923日 藤原種継が矢で射られて暗殺され

  容疑者十数名が捕らえられ、

  その中に早良親王が含まれていた。

  早良親王は皇族のため淡路国へ流罪となりましたが

  途中の乙訓寺に幽閉され食を断って死亡した。

○○早良親王とはどんな人物か○○

早良親王は光仁天皇の皇子で母は高野新笠、桓武天皇の同母弟

早良親王は11歳で出家し修練・修行を重ね

大安寺東院に移り高僧になっていました

781年 32歳のとき兄である桓武天皇が即位した際に

  父光仁天皇の勧めにより還俗し立太子された。

  早良親王は平城京の寺院勢力と強い結びつきがあった

785年 藤原種継暗殺への関与——冤罪の可能性が高い

  早良親王や春宮坊関係者と寵臣の藤原種継の対立

   桓武天皇は東大寺など南都と因縁の深い早良親王とは

   融合出来なかった

早良親王の過酷な最期

早良親王は廃位され、乙訓寺に幽閉された。

  • 弁明の機会が全く与えられなかった

  • 幽閉中に絶食して無実を訴えた

  • 配流の途中で息絶えた

  • 遺体がそのまま路傍に埋葬された

    **過酷―親王最期の真相——**

    第一層:表向きの理由 種継暗殺事件への関与疑惑

    第二層:桓武天皇の本音

      種継襲撃事件を利用して自身の子である安殿親王

        の安泰を図り早良皇太子を除こうとした

    第三層:最も深い理由

       早良親王と南都仏教対桓武天皇との根本的な対立

       早良親王は南都仏教の象徴

    桓武天皇が最も排除したかった「奈良時代の遺物」でした

       

    早良親王:怨霊の祟り——桓武天皇を苦しめた災厄の連鎖

       早良親王が憤死した3年後から

       桓武の宮廷内では次々と不幸な出来事が起きた。

    7886月に桓武妃・藤原旅子が30歳で没しました。

    7904月には皇后・藤原乙牟漏も30歳で亡くなりました。

     同年1月には母の高野新笠までもが薨去しました。

     安殿皇太子も体調がすぐれず陰陽師に占わせたところ

     早良親王の祟りと出ました。

     桓武天皇はこれを聞き早良親王の怨霊をとくに恐れた。

     そこで人心の一新を図るべく

    794年 平安京に遷都しました。

     

    流れ

    • 長屋王の変(729年)→藤原氏の策謀の始まり

    • 737年パンデミック→長屋王の怨霊・藤原四兄弟全滅

    • 広嗣の乱(740年)→式家の一時失墜

    • 安積親王急死(744年)→県犬養広刀自の子女の悲劇

    • 橘奈良麻呂の乱(757年)→聖武天皇の遺言を守ろう

    • 藤原仲麻呂の乱(764年)→南家の自滅

    • 称徳天皇の孤独→天武系最後の天皇の悲哀

    • 宇佐八幡神託事件(769年)→道鏡の悲劇

    • 光仁天皇擁立(770年)→北家vs式家の攻防

    • 井上内親王・他戸親王毒殺(775年)→百川の王殺し

    • 桓武天皇即位(781年)→異色の天皇誕生

    • 怨霊と御霊信仰→平安京遷都(794年)



    早良親王の悲劇は単なる政争の犠牲ではなく

     

    奈良時代(南都仏教天武系)vs平安時代(新王朝天智系)

    という時代の大転換の犠牲者でした。

    そして皮肉なことに——

    • 南都仏教を排除しようとした桓武天皇が

    • 南都仏教の高僧だった早良親王の怨霊に生涯悩まさ

    • その怨霊から逃げるように平安京へ遷都した

    奈良時代が最後の怨念を込めて平安時代へと時代を動かした

     

    種継暗殺事件は

    「式家の終わりの始まり・北家の台頭の始まり

    ・早良親王という最大の怨霊の誕生」

      という三重の意味を持つ

     

    藤原式家の勝利は長続きしなかった・・・その後

    出来事

    775

    井上内親王・他戸親王を毒殺

    779

    百川が48歳で急死

    781

    桓武天皇即位——式家の果実

    785

    種継が暗殺される

    810

    薬子の変で式家が没落

    842

    承和の変で式家が完全退場

     

    藤原式家は——

    これだけの功績を残しながら、その天皇たちの時代に自滅

     「式家が先に歴史の表舞台から退場する」

    参考:藤原式家

    「血系図」からみる歴史事件簿(23)光仁天皇即位770- yo3519’s blog

     

     

    藤原式家

     

     

    藤原式家の没落

     

    政治史として見ると——

    • 式家は810年薬子の変で没落

    • 842年承和の変で完全退場 →歴史の表舞台から消えた

    しかし血系図として見ると——

     ・乙牟漏(良継の娘)嵯峨天皇を産む →後の天皇家へ続く

     ・旅子(百川の娘) 淳和天皇を産む

    つまり式家は政治的には消えたが、

    その血は現在の皇室まで脈々と流れている——

     「式家の血は消えなかった」





 

「血系図」からみる歴史事件簿(25)氷上川継の謀反事件782年

「血系図」からみる歴史事件簿(25)氷上川継の謀反事件782



氷上川継は不破内親王と塩焼王の長男

  不破内親王(聖武天皇の娘・母は県犬養広刀自)と

  塩焼王の結婚は、天武系の血筋同士の結合であり、

  それゆえに権力者から常に危険視される存在でした。

782年 氷上川継は味方を集めて、朝廷を転覆させる謀反を計画

   一味の資人・大和乙人が川継の謀反計画を自白

   川継は裏門より逃亡するが捕らえられ→伊豆配流

   川継の伊豆配流に連座して、不破内親王は淡路国に配流



不破内親王の悲劇

764年:夫・塩焼王を殺される
769
年:呪詛事件で「厨女」に改名・居住禁止→冤罪復権

782年:息子・氷上川継の乱に連座→淡路配流
795
年:和泉国へ移送→消息不明

〇悲劇の第一章 道祖王廃太子事件

   不破内親王の夫・塩焼王の弟が道祖王(孝謙天皇皇太子)

757年 道祖王が廃太子される際、藤原仲麻呂は道祖王の邸を包囲

   道祖王は拷問を受けて獄死しました。

〇悲劇の第二章 塩焼王事件

742年頃 塩焼王が聖武天皇の勘気を蒙る

757年 皇太子候補に推されるも孝謙天皇に拒否される

    のち氷上真人姓を与えられて臣籍降下。

758年〜淳仁天皇の即位に伴って従三位に叙せられ公卿に 

   藤原仲麻呂に接近・急速に栄達,

763年 には中納言に

764年 仲麻呂の乱で「今帝」に担ぎ上げられ殺害される

  藤原仲麻呂の敗走に伴い孝謙上皇方の討伐軍に捕らえられ、

  近江国で藤原仲麻呂一家とともに殺害された。

〇悲劇の第三章 氷上志計志麻呂

769年 県犬養姉女らと共謀して不破内親王は称徳天皇を呪詛し、

  志計志麻呂を皇位につけようとしたとして、

  内親王の身位を廃され、厨真人厨女と改名させられた

  氷上志計志麻呂も母不破内親王の呪詛事件に連座

772年 呪詛事件は誣告による冤罪として、内親王に復帰

〇悲劇の第四章 氷上川継の乱

782年 氷上川継は味方を集めて、朝廷を転覆させる謀反を計画

   一味の資人・大和乙人が川継の謀反計画を自白

   川継は裏門より逃亡するが捕らえられ→伊豆配流

   川継の伊豆配流に連座して、不破内親王は淡路国に配流

 

不破内親王の母 県犬養氏とはどんな氏族か
大化改新の前後を通じて中級豪族に終始し、

古くから宮中に仕えてきた中堅の豪族という
県犬養氏からは藤原不比等の妻で元明天皇に仕えた

県犬養三千代が出ており、

広刀自が聖武天皇の夫人となった背景には、

県犬養氏の族長的立場にあった三千代の推挙があったのではないか。

 

県犬養広刀自の子女の悲劇 

安積親王17歳で急死(毒殺疑惑)

744年 安積親王が急死し聖武天皇の唯一の男子が消える
   広刀自と安宿媛(光明皇后)は同族でありながらライバル

井上内親王皇后廃位
 井上内親王は聖武天皇の第1皇女で、

721年わずか5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、

  6年後に伊勢に下向しました。

  つまり幼少期から神に仕える身として育った

  弟の安積親王の薨去により斎王の任を解かれ帰京しました。

770年異母妹の称徳天皇が崩御すると、夫の白壁王62歳が

  藤原百川や藤原永手の推挙によって第49代光仁天皇に即位

  これにより井上内親王は54歳で皇后となり、

  翌年には他戸親王も皇太子となりました。

772年光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、

  同年には他戸親王も皇太子を廃されました。
   (しかし他戸親王は次の天皇を約束された身分であり、

     高齢の光仁天皇を呪わずとも、そう遠くない将来に天皇となるため、

     巫蠱や厭魅を行ったことは疑わしいです。
     一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による

     他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力です)
773
年山部親王(後の桓武天皇)が立太子
773
年難波内親王を呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、

  他戸親王と共に庶人に落とされ没官の邸に幽閉された。

775年井上内親王・他戸親王が急逝

  (井上内親王が呪詛疑惑で廃后、他戸親王が廃太子となった一連の事件は

   山部親王の才能を見込んだ藤原百川の暗躍によるものとされています。)


不破内親王の苦難

764年夫・塩焼王を殺される
769
年呪詛事件で「厨女」に改名・居住禁止→冤罪復権

782年息子・氷上川継の乱に連座→淡路配流
795
年和泉国へ移送→消息不明

 

                              (CLOUD作成)

勝者:藤原百川(式家)と天智系・光仁天皇

770年 称徳天皇崩御→白壁王が光仁天皇に即位

   井上内親王が皇后・他戸親王が皇太子に

772年 藤原百川の策謀→井上内親王廃后・他戸親王廃太子

773年 山部親王(桓武天皇)が立太子

775年 井上内親王・他戸親王が幽閉先で同日急死

781年 桓武天皇即位

藤原氏の血を引かない者を排除し続けてきた構造が、

ここで皮肉にも「渡来人の血を引く天皇」を生み出すという結果になりました。

「血系図」からみる歴史事件簿(24)桓武天皇即位781年

「血系図」からみる歴史事件簿 (24)桓武天皇即位 781

光仁天皇の第一皇子(山部王)として737年に生まれた。

生母は百済系諸蕃氏族の和氏の出身である高野新笠

当初は皇族としてではなく官僚として大学頭や侍従に任じられた

770年 34歳の時に称徳天皇の崩御によって

  父の白壁王が皇位を継承する(光仁天皇)

  生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。

772年 皇太子の他戸親王と母の皇后の井上内親王が突如廃され

773年 山部王が皇太子とされた

781年 父から譲位されて天皇に即き(桓武天皇)

  同母弟の早良親王を皇太子と定めた

783年 藤原良継の娘の藤原乙牟漏を皇后とし、

  安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)が生まれる    

  百川の娘で夫人の藤原旅子には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。



なぜ異色の桓武天皇が誕生したのか

天武系皇族が絶滅状態だった

  770年称徳天皇の死によって天武天皇の皇統は途絶えました。

  長屋王の変から約40年間の藤原氏の「王殺し」の結果、

  天武系で皇位を継げる人物がほぼ消えていた

光仁天皇自身が異色の存在だった

  父・光仁天皇自身は62歳という異例の高齢で即位した天智系天皇

藤原百川の計算が全てを動かした

  実力者であった藤原百川らの後押しで皇太子へと進んだ

  反対の声があったにもかかわらず百川が強引に押し通したのは

  百川には自分の娘・旅子を妃にして外戚になるのが重要だった

桓武天皇自身が「異色」を逆手に取った

  桓武天皇は母の出自を逆手に取り百済との関係を強調することで

  皇統の正当性を主張しました。「百済王等は朕が外戚なり」

平安京遷都の真の意味

  平安京遷都の真の目的は桓武天皇による新しい皇統の樹立

  桓武天皇は自らの出自への強い自覚から天智天皇の血筋を強調し

  奈良時代とは異なる新しい皇統を打ち立てようとしました。

経過

729年 長屋王の変 藤原四兄弟が天武系を排除しようとした

40年間の「王殺し」で 天武系皇族が次々と消えていった

770年 称徳天皇崩御 天武系が完全に断絶

773年 桓武天皇立太子 渡来人の母を持つ異色の天皇が誕生

794年 平安京遷都 奈良時代とは全く異なる新しい時代へ

最大の皮肉

藤原氏が天武系を排除し続けた結果——

渡来人の血を引く桓武天皇という、誰も予想しなかった

「最も異色な天皇」が誕生した

「藤原氏の策謀が生み出した最大の皮肉」



桓武天皇即位で犠牲になった人々

直接の犠牲者
人物       関係          運命
井上内親王    光仁天皇の皇后     呪詛の冤罪→廃后→幽閉→775年急死
他戸親王     皇太子         母に連座→廃太子→幽閉→775年急死
早良親王     桓武天皇の皇太子    種継暗殺への関与を疑われ→廃太子→絶食死
                    (井上内親王・他戸親王の排除は百川)

間接的な犠牲者
人物            関係           運命
淡路廃帝(淳仁天皇)    仲麻呂が担いだ天皇    淡路に幽閉→765年怪死
道鏡            称徳天皇の寵臣      称徳崩御翌日に左遷→下野で客死
藤原種継          長岡京造営責任者     785年暗殺

他戸親王

  • 15歳で天皇になることを望んでもいない少年

  • 母が聖武天皇の娘というただ一点で消された

  • 自らは何もしていない 、

  • ただ「血筋」という宿命を背負って生まれた

  • その血筋ゆえに権力者に利用され消された

 →欲望もなく消えた若者たちの無念が怨霊となり

  欲望のままに動いた権力者たちを次々と祟り

  その恐怖が平安京遷都という歴史を動かした

 

桓武天皇の真の狙い——兄弟相続から親子相続へ

  • 安殿親王(後の平城天皇)が生まれていたがまだ幼かった

  • 桓武天皇が急死した場合に幼帝即位を避けるための「つなぎ」として早良親王を立太子

  • 早良親王は不婚・子なし——自分の子孫に皇位が移らないことが立太子の条件だった

 早良親王は最初から「使い捨て」の皇太子だった