「血系図」からみる歴史事件簿(19)橘奈良麻呂の変757年

「血系図」からみる歴史事件簿 (19)橘奈良麻呂の変 757

強まる藤原仲麻呂の権勢に、あせった橘奈良麻呂や大伴古麻呂らは、

孝謙天皇を廃して新帝を擁立するクーデターを計画しました。

しかし事前に察知した藤原仲麻呂により、

関係者粛清され、以降仲麻呂の権勢はさらに強まりました。

橘奈良麻呂の乱

757年 橘奈良麻呂・大伴古麻呂・小野東人・黄文王・安宿王らが

 集まり、挙兵することを誓約。

「橘奈良麻呂・大伴古麻呂・安宿王・黄文王らが一味して兵を発して仲麻呂の邸を襲い殺し、皇太子を退け、次いで天皇を廃して、塩焼王・道祖王・安宿王・黄文王の中から天皇を推戴する」
山背王(黄文王の弟)の密告で計画が発覚、一味が捕縛される
黄文王は拷問により獄死、安宿王は佐渡へ配流

塩焼王・道祖王 は自害を命じられました

 

聖武天皇の意思が無視された構造

  • 756年  :道祖王を皇太子にと聖武天皇が遺言

  • 7573月:仲麻呂が道祖王を廃太子

  • 7576月:橘奈良麻呂が反乱→壊滅

  • 758年 :淳仁天皇即位→仲麻呂の独裁完成

橘奈良麻呂の乱の真相

  • 単なる権力争いではなく聖武天皇の遺言を守ろうとした行動

  • 擁立候補に道祖王・長屋王の息子たちが含まれていた

  • 440名粛清という苛烈な弾圧で反対勢力が完全消滅



孝謙天皇は女性天皇で独身なので皇統の危機が起きるのは必死。

将来の皇位継承を考えるのは朝廷官僚の首脳としては当然でもあった。ところが藤原仲麻呂らはこれを謀反と見なして

橘奈良麻呂らの追い落としにかかりました。

奈良麻呂の立てた計画は大伴古麻呂に美濃国不破関を閉鎖させ、

都で仲麻呂邸を襲撃し孝謙天皇を廃位させて

道祖王・塩焼王・安宿王・黄文王のいずれかを皇位にというものでした。

つまり奈良麻呂は聖武天皇の遺言を守ろうとしたわけです。

擁立候補に道祖王(聖武天皇が指名した皇太子)が含まれている。



乱の結果——仲麻呂の独裁が完成

藤原仲麻呂はこの事件により自分に不満を持つ政敵を一掃

758年 大炊王が即位し淳仁天皇となり

仲麻呂は右大臣に任ぜられ恵美押勝の名を与えられます。

そして760年には太政大臣にまで登りつめ栄耀栄華を極めました。

 

出来事

構造

756

聖武天皇崩御→道祖王を皇太子に遺言

天武系の継承意図

7573

孝謙天皇・仲麻呂が道祖王を廃太子

聖武の遺言を反故

7576

橘奈良麻呂の乱→計画発覚

反対勢力の壊滅

7577

黄文王(獄死)・安宿王(配流)

長屋王の子たちも排除

758

大炊王が淳仁天皇に即位

仲麻呂の独裁完成

                 CLAUDE作成)

 

参照:橘氏

 

 





「血系図」からみる歴史事件簿(18)孝謙天皇即位749年

「血系図」からみる歴史事件簿 (18)孝謙天皇即位 749

749年 父・聖武天皇の譲位により孝謙天皇即位。

治世の前期は皇太后(光明皇后)が後見し、

皇后宮職を改組した紫微中台の長官で、

皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。

 

阿倍内親王(孝謙天皇)と藤原仲麻呂の関係と破局

まず「良好な関係」の時期

 藤原仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、

 従兄妹で皇太子だった阿倍内親王とも良好な関係にあった。

 749年 孝謙天皇即位 

 752年 大仏開眼供養会が盛大に催され、

 その夜孝謙天皇が藤原仲麻呂の私邸に泊まり、

 その後も「田村宮」と呼ばれるほど長逗留を繰り返した。

破局の第一段階——760年 光明皇后の崩御

 760年 光明皇太后が崩御すると、

 孝謙上皇と藤原仲麻呂・淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。

破局の第二段階——761年 道鏡の登場

 761年 保良宮に滞在中に病になった孝謙太上天皇は、

 看病にあたった看病禅師の道鏡と関係を深めていった

 762年 藤原仲麻呂の正室・藤原宇比良古が亡くなり、

 藤原仲麻呂と孝謙上皇との対立は決定的になりました。

 仲麻呂は淳仁天皇を通して間接的に「道鏡との関係をやめよ」

 と孝謙上皇に苦言を呈した

破局の第三段階——762年・決定的な決裂

 762年 孝謙上皇が政務掌握を宣言・別居を宣言した。

破局の流れを整理すると

出来事

関係への影響

752

大仏開眼の夜・孝謙天皇が田村第に宿泊

最も親密な時期

758

孝謙天皇が仲麻呂の推す淳仁天皇に譲位

協力関係の頂点

760

光明皇后崩御

二人をつなぐ紐帯が消える

761

道鏡が登場・仲麻呂が苦言

亀裂の始まり

762

仲麻呂の正室・宇比良古が死亡

パイプ役が消える

762

孝謙上皇が政務掌握を宣言・別居

決定的な破局

764

仲麻呂の乱・仲麻呂斬首

完全な終焉

                CLAUDE作成)

 

孝謙天皇の周囲から消えていった人々→孝謙天皇の孤独

肉親

  • 基王(兄):728年・生後1年で夭折

  • 安積親王(異母弟):744年・17歳で急死

  • 聖武天皇(父):756年・崩御

  • 光明皇后(母):760年・崩御

政治的支柱

  • 橘諸兄:757年引退→翌年死亡

  • 橘奈良麻呂:757年・獄死

  • 大伴古麻呂:757年・処刑

天武系皇族

  • 黄文王(長屋王の子):757年・獄死

  • 安宿王(長屋王の子):757年・配流

  • 道祖王:757年・廃太子→獄死

藤原氏の「王殺し」によって天武系の皇子が次々と消えた結果、

孝謙天皇の周囲には、完全な孤立状態が生まれました。

そこに現れたのが道鏡

761年病になった孝謙上皇の看病にあたった道鏡と関係を深める。

孝謙天皇が道鏡に傾倒した理由は単なる男女の情ではなく——

  • 肉親を次々と失った孤独な心の空白

  • 仲麻呂という巨大な権力への恐怖と反発

  • 仏教という精神的な拠り所への渇望

が重なった結果だったのかもしれません。

 

大仏建立 752

743年 聖武天皇は紫香楽宮において「盧舎那仏造立の詔」を発した。

1.
天皇自身の強い意志の表明
「朕は菩薩の大願を以て、盧舎那仏の金銅像一躯を造り奉らんと欲す」

2.
民衆との協働への強調
「一枝の草、一握りの土を持って像造りに協力したいという者があれば、それを許す」

富や権力で強制するのではなく、心からの協力を訴えました

3.
国家と仏法の一体化
「華厳経」の世界観にもとづき、盧舎那仏を選んだ。

天皇=仏法の守護者という理念の体現

752年 開眼供養が盛大に行われました。

聖武天皇は太上天皇として出席し、自らの悲願の成就を見届けました。

盧舎那仏(法身仏)は規模高さ約15mという巨大さ

素材金銅造(銅に金メッキ)にこだわり、莫大な資源を投入



聖武天皇は743年の詔の翌年、行基を大仏建立の勧進役に任命。

さらに745年には当時の仏教界最高位である「大僧正」に任じました。

行基(668749年)は、河内国出身の僧侶

当初は「危険人物」だった
行基は最初は朝廷から弾圧される側にいました。

行基は各地を巡り、庶民に直接仏法を説き、熱狂的な支持者を集めた
朝廷は717年「行基とその弟子たちは法律違反だ」と公式に非難する太政官符を出すほどでした。

弾圧していたはずの朝廷が、大仏建立にあたって行基の力を借りざるを得なくなりました。

大仏建立には莫大な労働力・資材・資金が必要
しかし当時の民衆は重い税と労役に疲弊しており、官製の動員だけでは限界があった
行基には全国に広がる信者ネットワークと、民衆を自発的に動かす求心力があった






「血系図」からみる歴史事件簿(17)藤原広嗣の乱740年

「血系図」からみる歴史事件簿 (17)藤原広嗣の乱 740

藤原広嗣の乱の背景——737年パンデミックの余波

左遷が怒りの発火点

738年 藤原広嗣は平城京のあった大和国の長官から

  九州の次官大宰少弐へ赴任しました。

  この人事は対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざける

  思惑があったが、広嗣はこれを左遷と感じ強い不満を抱きました。

 

藤原広嗣の怒りの矛先——吉備真備と玄昉

吉備真備——学者にして政治家

吉備真備は716年に遣唐使の留学生となり翌年入唐しました。

吉備真備は備中国の豪族出身でありながら

若くして遣唐使に選ばれ唐で儒学や律令法など学問を修めました。

帰国後は朝廷で重用され橘諸兄とともに聖武天皇を支え

律令制度の整備や外交関係の改善に尽力しました。

吉備真備は聖武天皇から孝謙・淳仁・称徳・光仁天皇の

五代の天皇におよそ40年仕え

72歳で右大臣となり77歳まで仕える

学者という身分でありながら右大臣にまで昇進した人物は

日本に2人しかおらず吉備真備と菅原道真のみです。

阿倍内親王の教育係でもありました。

玄昉——権力を持った僧

玄昉は聖武天皇の母である藤原宮子の病気を治療した、

宮子の病状は回復し、それを評価され玄昉は僧正に任じられる

聖武天皇からも寵愛され、政治にも口出しするようになりました。

玄昉には宮中での男女の色恋にまつわる噂があったとも言われています。

その相手が聖武天皇の母である藤原宮子と皇后の光明皇后でした。

玄昉は左遷された翌746年に筑紫観世音寺にて没しました。

玄昉が左遷されてすぐに広嗣ゆかりの地である筑紫で没したことで

都では広嗣の怨霊の仕業だとうわさされました。



広嗣が提出した上表文には、

「疫病のまん延や社会情勢の不安は吉備真備と玄昉を採用したことが

 天の意思に反する行為である」という旨が記されていました。

実際、吉備真備と玄昉が唐から帰朝した735年頃より天然痘が流行し始めたことから、唐から帰国した者たちが広めたのはほぼ間違いないとみていいでしょう。

しかし

当時権力を握っていた左大臣橘諸兄は広嗣の上表文を、

吉備真備と玄昉を起用した自分自身に対する批判であり

中央政府に対する謀反と受け取りました。

謀反扱いされた広嗣は慌てて挙兵にふみ切ることになりました。

 

藤原広嗣の乱の経緯
740
829日 広嗣は玄昉と吉備真備を除くことを要求する

  上表文を提出し、太宰府管内諸国の兵を徴集しました。
  朝廷は大野東人を大将軍に任命して全国的に動員をかけ、

  広嗣軍は板櫃川での戦いで総崩れとなりました。

  広嗣は朝鮮半島へ逃れようとしましたが嵐に遭って果たせず、

  肥前国松浦郡で捕らえられ斬首されました。
  乱そのものは約2ヶ月で鎮圧されています。


藤原広嗣の乱後の聖武天皇の異常な反応

藤原広嗣は聖武天皇の従兄弟であり、光明皇后の甥にも当たりました。非常に近い身内から反乱が起こったため聖武天皇は激しく動揺し、

鎮圧を家臣に任せて伊勢へ逃避行動をとりました。


5
年間・4回の遷都
740
年 聖武天皇は平城京大和(奈良)を離れ、

    恭仁宮(京都府木津川市)に遷都

    しかし恭仁京の完成を待たず

744年 難波宮 摂津(大阪)へ

745年 紫香楽宮近江(滋賀)に都を移し、

   同年には再び平城宮に戻しています。

なぜ遷都を繰り返したのか——3つの説

説① 広嗣の乱による精神的ショックと恐怖からの逃避行動
説② 橘系と藤原系の勢力争いに天皇が翻弄された結果、

  都が両者の拠点を行き来した
説③ 恭仁京については、藤原広嗣に呼応する藤原氏勢力の

  地盤を離れるため、橘諸兄の本拠地への誘致を受け入れた

  とみる考えが有力です。


遷都がもたらしたもの——仏教への傾倒
この混乱の中で聖武天皇は仏教に答えを求めます。

反乱や疫病が度重なる中で仏の力で国を良くしていくという

鎮護国家思想に基づき、

741年国分寺建立の詔

743年大仏建立の詔



その後に続く、安積親王急死

729年 長屋王の変(藤原の血を引かない皇族を抹殺)

737年 パンデミック(藤原四兄弟が全滅・一時的に橘系が巻き返す)
740
年 藤原広嗣の乱(藤原式家が自滅・橘諸兄政権が続く)
744
年 安積親王急死(非藤原系最後の皇位継承候補が消える)


安積親王はどう「排除」されたのか

728年安積親王誕生。光明子の基皇子が同年夭逝

729年長屋王の変→光明子の立后

737年藤原四兄弟が天然痘で全員死亡

738年安積親王を差し置いて阿倍内親王が立太子

744年安積親王、17歳で急死(毒殺説あり)

749年阿倍内親王が孝謙天皇として即位

まず「制度的排除」——阿倍内親王の立太子

738年 光明皇后を母に持つ阿倍内親王が立太子

  このとき安積親王は11歳。

 聖武天皇の皇子でありながら、

  史上初の女性皇太子を強引に立てることで、

  まず制度的に皇位継承の列から外された。

そして「物理的排除」——744年の急死

  安積親王は難波宮への行幸に随行した際、

  途中の桜井頓宮で脚気になり恭仁京に引き返しましたが、

  2日後の閏113日に17歳で死去しました。

  その死があまりにも急で不自然なところもあったことから、

  藤原仲麻呂に毒殺されたという説も根強くあります。

    大伴家持は安積親王のお付きの内舎人として親王に親近しており、

            その急死に際して挽歌を詠みました。
      「あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 我が王かも」



参照:藤原式家Ⅰ

参照:藤原式家Ⅱ




「血系図」からみる歴史事件簿(16)疫病の大流行737年

「血系図」からみる歴史事件簿 (16)疫病の大流行 737

729年 長屋王の変後、光明子立后

737年 藤原四兄弟、天然痘で全員死去

  藤原房前(北家祖)参議・中納言

 藤原麻呂(京家祖)参議

 藤原武智麻呂(南家祖)大納言・右大臣

 藤原宇合(式家祖)参議

当時の四位以上の官人33名のうち11名(33%)が死亡

平城京で官人の大多数が罹患したため、朝廷が政務を停止する事態となった 。政治の実権は右大臣の橘諸兄が握り、藤原氏は一時停滞を余儀なくされる。

 

疫病の大流行  737年 (天平9年)

阿倍継麻呂 死没天平91月 遣新羅大使

大野王 死没天平975日 知太政官事・忍壁皇子の子

小野 老 死没天平9611日 従四位下・大宰大弐。

「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり 」 

    大宰少弐としての小野老の大宰府着任を祝う饗宴で、老自らが詠んだ和歌。

佐為王  死没天平9年 従四位下・美努王(三野王)の子。

藤原房前 死没天平9525日 藤原不比等の次男

多治比縣守 死没天平9725日 奈良時代の公卿、征夷将軍

藤原麻呂 死没天平9817日 藤原不比等の四男

藤原武智麻呂 死没天平9829日 藤原不比等の長男

藤原宇合 死没天平997日 藤原不比等の三男

水主皇女 死没天平9922日 天智天皇の皇女

 

長屋王の怨霊説
729
年に藤原四兄弟の陰謀で死んだ長屋王

——そのわずか8年後に四兄弟全員が死んだことで、

当時の人々は長屋王の祟りと恐れたという説があります。

死後すぐに始まった「祟り」の連鎖
聖武天皇は勅を発し、長屋王の遺体を城外へ捨てて焼かせ、

その骨を砕いて海に捨てさせたといいます。

遺骨は土佐国に流しましたが、土佐で多くの民衆が亡くなったと、
つまり長屋王の怨霊は死の直後から始まっていたわけです。
②8
年後——藤原四兄弟の「天罰」
天平9年(737417日に次男の房前が最初に亡くなり、

713日には四男の麻呂、

25日には長男の武智麻呂が亡くなりました。

残る三男の宇合も85日に没し、

藤原四兄弟の政権は終焉を迎えました。

立て続けに亡くなったので、

人々は長屋王の祟りではないかと噂したといいます。
光明皇后の恐怖——燃灯供養の謎

平城京の旧長屋王邸付近では1000点近い灯火器が見つかり、

燃灯供養の痕跡と考えられています。

見つかった灯火器は、一緒に出土した木簡の年紀から、

738年頃に行われた可能性が高いと考えられます。

長屋王の祟りとの噂を鎮めるために、

光明皇后がおこなった燃灯供養ではないかと考えられています。
復讐の刃——大伴子虫の事件
738
7月、大伴子虫という人物が、中臣東人を刀で斬り殺したという。子虫は長屋王に仕えていた人で、

東人は長屋王を裏切り、事実を偽って告発した人物でした。

これは738年の時点で長屋王の冤罪は周知の事実になっていたのか

現代まで続く「長屋王の祟り」
長屋王の邸宅跡は1986年に平城宮跡のすぐ近くで発見されましたが、

遺跡の上に「そごう」というデパートが作られました。

10年後にそごうは経営破綻し、奈良そごうも閉店してしまいました。人々は「これは長屋王の祟りに違いない」と言いました

 

出来事と怨霊との関連

729年長屋王・吉備内親王自害→→怨霊の発生

729年直後遺骨を土佐へ→民衆が死亡し最初の祟り

737年藤原四兄弟全員死亡・・・天罰・祟りの成就

738年旧長屋王邸宅で大規模燃灯供養―光明皇后が鎮魂

738年大伴子虫が中臣東人を斬殺・・・冤罪が公然の事実に

 

「血系図」からみる歴史事件簿(15)長屋王の変729年

「血系図」からみる歴史事件簿 (15)長屋王の変 729


父が天武天皇の皇子高市皇子、

母御名部皇女が天智天皇の娘、

妻吉備内親王が文武天皇の姉

  長屋王は——皇族としての格が極めて高く、

     聖武天皇の次の天皇候補として最有力でした。
藤原氏の血が入っていない、純粋な皇族の権力者。

血系図で見ると長屋王は天武天皇の血と天智天皇の血を両方持ち、

   さらに妻・吉備内親王を通じて文武天皇とも繋がっていた。

 

7292月——密告と包囲
事件は突然始まりました。
密告者は漆部君足と中臣宮処東人という二人の下級官人です。
「長屋王が左道を学び、国家を傾けようとしている」
               左道とは呪術・妖術のことです。

具体的には「長屋王が密かに呪詛を行い、

光明子が産んだ皇子を呪い殺した」という告発でした。

長屋王を排除しなければならなかった理由は三つです。


〇第一の理由——光明子立后の障壁
 長屋王は非皇族が皇后になることに反対していたとされます。

 「皇族以外を皇后にすることは前例がない」

  という長屋王の主張は、 律令の精神からも正当でした。
 長屋王が生きている限り、光明子の立后は難しかった。
〇第二の理由——皇位継承の競合
 光明子の産んだ皇子が死んだ今、

 長屋王の息子が皇位継承候補として浮上する。

〇第三の理由——藤原不比等亡き後の権力空白
  藤原不比等死去後、元正上皇が長屋王を重用したことで、

  藤原氏は相対的に後退していた。

 

実は吉備内親王の血筋こそが「本当の標的」だったのでは?

血筋において長屋王一家に劣等感を持つ聖武天皇の視点から見れば、

長屋王と吉備内親王とその所生の皇子たち

(膳夫王・葛木王・鉤取王)の3人を抹殺する必要があった、

とする説があります。

       桑田王は吉備内親王の子とする説と、別の夫人の子とする説がある

つまり——
吉備内親王は草壁皇子と元明天皇の娘という非常に高貴な血筋
その息子たちは「天武天皇の曾孫」として

皇位継承の有力候補になりえた
だからこそ吉備内親王所生の子だけが死を命じられ、

  藤原長娥子所生の安宿王・黄文王らは罪を免れた

生き残った黄文王・安宿王のその後
   二人は臣籍に降下し、奈良時代を生き延びます。

 

長屋王の変での鈴鹿王
長屋王の変により兄の左大臣・長屋王が自殺しましたが、

長屋王の親族は全員赦免するとの勅で、

鈴鹿王は連座を免れました。

さらに変3月には二階昇進して正四位上に叙せられています。
兄が死んだ直後に昇進しているというのが非常に不自然--
737
年に藤原四兄弟が相次いで薨去すると、

   鈴鹿王は参議から一挙に知太政官事に任ぜられて

   橘諸兄と共に政権を主導しました。

 (知太政官事に就任したものの、政治の実権は橘諸兄にあり、

  知太政官事の地位は象徴的なものでした。)

長屋王は高貴な母の血を誇りとして藤原氏と闘い、

鈴鹿王は母の血筋が劣るがゆえに兄の死を利用して生き延びた

——という解釈が成り立ちます。

 

「血系図」からみる歴史事件簿(14)元正天皇即位715年

「血系図」からみる歴史事件簿 (14)元正天皇即位 715

714年 首皇子を皇太子にする

715年 元明天皇が譲位し、 元正天皇即位

 

----なぜ元正天皇が即位したのか
715
年に首皇子(後の聖武天皇)は17歳でした。
持統天皇が690年に即位したとき軽皇子は幼児、

元明天皇が707年に即位したとき首皇子は9

——では715年首皇子は17歳なら、もう即位できるはずではないか。

 

理由その一 首皇子の立場がまだ不安定だった
  首皇子の母・藤原宮子は精神を病んで久しく、

  母親としての後ろ盾がなかった。

  朝廷内には長屋王という強力な皇族がいた。

  17歳の首皇子が即位しても、長屋王に対抗できる保証がなかった。
理由その二 元正天皇自身の格の高さ
  元正天皇は草壁皇子の娘であり元明天皇の娘です。

  父方では持統天皇の孫、母方では天智天皇の曾孫

  ——皇族としての格は申し分ない。

  しかも生涯独身で子を持たないことが、

  「中継ぎ」として機能する 条件でもありました。
理由その三 藤原不比等の計算
  元正天皇の即位を積極的に支持したのは藤原不比等とされています
  首皇子が幼いまま即位すれば、

  後見役として長屋王が台頭する可能性がある。

  元正天皇を中継ぎに立てて時間を稼ぎ、

  首皇子が成熟するのを待つ

  ——不比等にとって元正の即位は長屋王封じの手でもありました。

 

持統天皇が作った「譲位」という制度が、ここで再び機能しました。
元明天皇は元正天皇に譲位した。

「天皇が生前に位を渡す」という持統天皇の発明が、

 母から娘への譲位を可能にした。

 

元正天皇は生涯独身だった。
元正天皇が誰かと結婚して子を産めば、

その子の父方の血筋が皇統に絡んでくる。

藤原氏と別の勢力が皇統をめぐって争う構図が生まれる。
独身のまま即位し、独身のまま譲位する

——それが「中継ぎ」として最も安全な形でした。

 

720年 藤原不比等が死去
後ろ盾を失った藤原四兄弟にとって、首皇子の即位は急務でした。

首皇子が即位すれば、母・宮子は皇太后、

妻・光明子は皇后候補——藤原氏の地位が制度的に確立される。


藤原不比等死後、朝廷で急速に存在感を増したのが長屋王でした。

長屋王は左大臣として朝廷の実権を握りました。

藤原四兄弟にとって長屋王は最大の障壁でした。

長屋王が健在な間は、光明子を皇后にすることも、

朝廷を掌握することも難しかった。



724年 聖武天皇即位、長屋王は左大臣として健在

727年 聖武と光明子の間に皇子誕生、翌年夭折

728年 皇子の死で後継問題が再燃

729年 長屋王の変——長屋王自害

   皇子の夭折が引き金でした。

 

光明子との間に生まれた皇子が死んだとき、

次の皇位継承候補として浮上したのが長屋王の息子たちでした。

吉備内親王(文武の姉)を妻に持つ長屋王の息子は、

皇族の血を引いています。
藤原四兄弟にとって、これは許容できない事態でした。
光明子が次の皇子を産む前に、長屋王を排除しなければならない

——729年の変は、そういう切迫した計算の中で起きた事件です。


    つづく



 

「血系図」からみる歴史事件簿(13)平城京遷都710年

「血系図」からみる歴史事件簿 (13)平城京遷都 710年

707年 文武天皇が25歳で死去
   文武天皇の母が元明天皇として即位


------なぜ元明天皇が即位したのか
文武天皇が崩御した707年、息子の首皇子はまだ9歳でした。
(持統天皇が690年に即位したときと、構造がほぼ同じです。
草壁皇子は690年に死去、息子の軽皇子は幼かった,軽皇子を皇太子にするまで、

母持統天皇が即位)

 

710年 藤原京から平城京に遷都


平城京遷都——なぜ藤原京を捨てたのか
藤原京は持統天皇の都だった。
藤原不比等にとって、持統天皇の色が染み込んだ藤原京より、
自分が設計する新しい都の方が都合がよかった。
平城京の設計に最も深く関わったのも不比等です。

持統天皇が作った都を、不比等が捨てた。
持統天皇が命をかけて建てた藤原京を捨てる決断——
              元明天皇自身はどう思っていたのか。


持統天皇の都を壊すことへの葛藤があったはずです。
しかし元明天皇もまた「首皇子を守る」という一点において、
すべての感傷より目的を優先した。

 

------藤原不比等の野望

藤原不比等には四人の息子がいました。
長男 武智麻呂(藤原南家)
次男 房前  (藤原北家)
三男 宇合  (藤原式家)
四男 麻呂  (藤原京家) 
鎌足が大化の改新で「天皇を支える臣下」として地位を確立した
不比等はそこから一歩進めて「天皇の外戚」という構造を作り上げた。
    娘を入内させ、生まれた皇子を天皇にする

 



〇表の仕事——平城京設計への関与(708〜710年)
   元明天皇の詔で遷都が決まりましたが、実務を動かしたのは不比等です。
〇表の仕事——律令国家の完成
  養老律令(718年編纂)編纂責任者は(表向き)舎人親王
  大宝律令をさらに整備したものです。

  不比等は国家の設計図を最後まで書き直し続けた人物です。
 ( 大宝律令が画期的だったのは「日本」と「天皇」という称号を法的に確定させたことです。

  それまで「大王」だった称号が「天皇」になった。)

●本心の野望―文武天皇への娘宮子入内(701年頃)
宮子が皇子をもうければ
天皇の外祖父となり、権勢を誇る