「血系図」からみる歴史事件簿 (23)光仁天皇即位 770年

764年 白壁王は藤原仲麻呂の乱鎮圧に功績を挙げる
766年 大納言に昇進
だが度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、
白壁王は専ら酒を飲んで日々を過ごすことにより、
凡庸・暗愚を装って難を逃れたと言われている。
770年 称徳天皇崩御→白壁王が第49代光仁天皇に即位(62歳)
白壁王は天智天皇の嫡流にあたるが、
妃の井上内親王は聖武天皇の皇女であり、
他戸親王は天武天皇の血を引く男性皇族の一人であった。
770年 井上内親王が皇后に他戸親王が皇太子になる
773年 難波内親王を呪詛したという嫌疑で
井上内親王は他戸親王と共に庶人に落とされ幽閉された。
(しかし他戸親王は次の天皇を約束された身分であり、
高齢の光仁天皇を呪わずとも、そう遠くない将来に天皇となるため、
巫蠱や厭魅を行ったことは疑わしい)
773年 山部親王(桓武天皇)が立太子
775年 井上内親王・他戸親王が幽閉先で同日急死
781年 桓武天皇即位
一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による
他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力です。
藤原氏の血を引かない者を排除し続けてきた構造が、
ここで皮肉にも「渡来人の血を引く天皇」を生み出す
という結果になりました。
藤原式家が自分たちの利益のために担ぎ上げた桓武天皇が、
結果的に平安時代という新しい時代を開くことになるわけです。
井上内親王皇后 廃位・幽閉・急死(暗殺説)
井上内親王は聖武天皇の第1皇女
717年 井上内親王生まれる、聖武天皇の第一皇女。
母は県犬養広刀自で、5歳で伊勢神宮の斎王に選ばれた。
744年 弟・安積親王の死去により斎王の任を解かれ帰京し、
その後白壁王(光仁天皇)の妃となりました。
754年 酒人内親王を、761年に他戸親王を産みました。
他戸親王は 父:光仁天皇(天智系)
母:井上内親王(天武系・聖武天皇の娘)
つまり天智系と天武系の両方の血を引く存在でした。
770年 異母妹の称徳天皇が崩御すると、
夫の白壁王62歳が藤原百川や藤原永手の推挙によって
第49代光仁天皇に即位しました。
これにより井上内親王は54歳で皇后となる
771年 他戸親王が皇太子となる。
(称徳天皇が皇嗣を定めないまま崩御した際、
天武系の文室浄三次いで文室大市を推そうとした
右大臣吉備真備を出し抜いて、
従兄の左大臣藤原永手や兄藤原良継と謀って、
皇嗣を定めた称徳天皇の宣命を偽造するなど、
天智系の白壁王の擁立に尽力したとされるのが藤原百川)
井上内親王——皇后から怨霊へ
770年 光仁天皇の即位(井上内親王が皇后に)北家・永手が推挙
771年 藤原永手死去 藤原北家から藤原式家へ権力移動
772年 呪詛事件→井上内親王廃后・廃太子 式家・百川の陰謀
772年 酒人内親王が斎王に、娘も政治から切り離される
775年 幽閉先で他戸親王と同日に薨去。
(この不自然な死には暗殺説や自殺説も根強い)
800年 死後25年で皇后復号←怨霊への恐怖
藤原百川の計画は——
第一段階 白壁王(光仁天皇)を擁立→山部王を皇太子にする
第二段階 井上内親王・他戸親王を呪詛事件で排除
第三段階 山部王(桓武天皇)を立太子
第四段階 百川の娘・旅子を桓武の妃に→式家が外戚に
藤原式家 Ⅰ

藤原式家 Ⅱ

藤原式家 Ⅲ

藤原式家の繁栄——そして皮肉な結末
百川の子の藤原緒嗣もわずか29歳で参議に昇進
長岡京の後に建設された平安京造宮と蝦夷征伐の中止を進言
嵯峨天皇を経百川の娘て旅子を母とする淳和天皇が即位すると
その外伯父として累進し右大臣ついで左大臣に至りました。
その後の藤原式家の衰退——栄華から退場まで
785年に 藤原種継が暗殺されると式家は一時的に後退し
しばらくは南家の継縄・北家の内麻呂らが政権が主導。
810年 平城天皇は藤原仲成・薬子兄妹の意見をいれて
国政に介入し「二所の朝廷」と称せられる事態が生じた
嵯峨天皇は藤原仲成を射殺した。
平城上皇は兵を従えて東国に赴こうとして失敗し、出家し
薬子は自殺
藤原式家の主な人物
