私の城攻め  福山城

私の城攻め
福山城

 

備後南部の中心地は
福山城から北東約6キロメートルに位置する西国街道沿いの神辺で、

ここに備後国の政庁である「神辺城」があった。
また、海においては福山城から南にある鞆の浦海上交通の要衝となっていた。
徳川家康の従兄弟である水野勝成 が西日本の外様大名に対する抑えとして
備後国東南部と備中国西南部の計10万石を与えられ、

大和国郡山藩から転封する。
元和8年(1622年福山城竣工
2020年から2022年にかけ、築城400年を記念した大規模な改修工事が行われた


現在の天守、月見櫓、御湯殿は1966年に鉄筋コンクリート構造で復興されたものです。


三の丸南側はJR福山駅が東西に貫き、新幹線や福塩線のホームからは、
天守や伏見櫓が聳立する本丸跡を間近に望むことができる。


福山城の年表


元和5年(1619年) 築城が開始される。
元和8年(1622年福山城竣工。
  2重の付櫓が取り付く複合式の五重天守や三重櫓、二重櫓、多聞櫓
  10万石の大名の城としてこの規模は特筆に値する。
延宝4年(1676年) 総構に石垣が築かれる。
元禄11年(1698年) 水野家断絶。

         5代藩主水野勝岑の早世により無嗣除封となる
元禄13年(1700年) 出羽国山形藩より松平忠雅が入封する
宝永7年(1710年) 松平忠雅が伊勢国桑名藩に移封させられ、
         阿部正邦が下野国宇都宮藩より入封する。
慶応元年(1865年) 櫛形櫓、槍櫓、鉄砲櫓が火薬を爆発し焼失する。
慶応4年(1868年) 福山城開城。
明治4年1871年廃藩置県
明治6年1873年福山城廃城、施設の売却が始まる。
明治7年(1874年) 本丸が下賜される。
明治8年(1875年) 本丸が「福山公園」となる。東側に階段が敷設される。
昭和6年(1931年) 福山城天守が当時の国宝に指定される。
昭和11年(1936年) 本丸が国の史跡に指定される。
昭和20年(1945年) 戦火により天守・御湯殿等が焼失する。
平成18年(2006年)日本100名城(71番)に選定される。
令和4年(2022年)「令和の大普請」が完成し、福山城400年博が行われた


福山城 城主


主な城主
水野勝成

1564年(永禄7年)、三河国に生まれる。
         勝成の父忠重と徳川家康母の於大は姉弟であるため

         徳川家康とは従兄弟の関係にあたる。
1579年(天正7年)遠州高天神城攻めで、初陣を飾る
1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いの時、父の勘気を受け諸国を遊歴する
1599年(慶長4年)父忠重と和解して帰参した。
1600年(慶長5年)父忠重が暗殺され、37歳でその遺領刈谷3万石を継ぐ
1615年(元和元年)大坂夏の陣で猛将として活躍、

         その功績により大和国郡山に6万石で移封される。
1619年(元和5年)4万石加増されて備後10万石に移され、

         福山藩の歴史が始まる。
1622年(元和8年)福山城が完成する
1638年(寛永15年)74歳の老身をもって島原の乱に出陣、

         そして鎮圧後には嫡男勝俊に藩主の座を譲る
1651年(慶安4年)88歳で福山において死去、寺町賢忠寺にて葬られる。


⑤水野勝岑
1697年(元禄10年)福山において生まれる。

         この年勝種の急死によりわずか1才で家督を継ぐ。
1698年(元禄11年)参府の途中病にかかり、江戸にて2才という若さで亡くなる。
         お家断絶を迎えることとなった

         福山藩は武家諸法度により取り潰し、退去が下される。
         勝成曾孫の勝長が水野家を継ぐことが許されるが、
         福山から遠く離れた能登国にわずか1万石であった。
         その後結城藩へ移封となり現在まで続いていく。


⑥松平忠雅


1683年(天和3年)松平清輝の長男として出羽山形に生まれる。
1700年(元禄13年)に山形から福山への移封が決定する
1709年(宝永6年)松平忠雅は福山領内に入る
1710年(宝永7年)伊勢桑名へ移封となってしまう。
        松平家は通称奥平松平、元は奥平姓で三河の豪族であった。
        奥平信昌と徳川家康長女の間に生まれた忠明が家祖

        大和郡山・播磨姫路・下野宇都宮等様々な土地に移封となり、

        武蔵忍藩時代にはペリー来航に伴い台場の守備にあたる。


⑦阿部正邦

1658年(万治元年)阿部家5代当主として武蔵国で生まれる。
1671年(寛文11年)父定高の遺領であった武蔵国岩槻を襲封
1681年(天和元年)に丹後国宮津
1697年(元禄10年)に宇都宮へと転封を重ね、
1710年(宝永7年)53歳で備後国福山に入封する。
1715年(正徳5年)江戸において死去。
       初代の正勝は家康が今川家の元で人質生活の時期から近待

       水野家や松平家と同じく代々徳川家に仕える譜代の家柄である。


阿部正弘

1819年(文政2年)正精の6男として江戸藩邸で生まれた。
1836年(天保7年)兄の正寧の養嗣子となり、18歳で家督を継ぐ
1837年(天保8年)福山に帰国するも、その滞在はわずか2か月余りであり、

         江戸に戻って奏者番
1840年天保11年)寺社奉行を兼任する
1843年(天保14年)に25歳の若さで老中に抜擢される
1844年(天保15年)に老中首座となった。
1853年(嘉永6年) ペリーの浦賀来航、
1854年安政元年)日米和親条約の締結に至る開国問題を老中首座として指揮

1855年安政2年)藩校誠之館を福山に開校
1857年(安政4年)39歳の若さで病没する。


⑯阿部正桓


福山藩は前藩主である正方の不慮の死の後、藩主不在であった


1868年(慶應4年)広島藩浅野長勲の弟を正方の養子として、

        更に正弘の6女寿子に婿入りする

1868年(明治元年箱館戦争へ出兵する
1869年(明治2年)に榎本軍は投降し、戊辰戦争は終了した。
1871年明治4年)「廃藩置県」が断行され福山藩は福山県となる

 

歴代藩主

水野勝成
②水野勝俊
③水野勝貞
④水野勝種
⑤水野勝岑

     水野家福山藩は無嗣改易により取り潰し、福山からの退去が下される。
         勝成曾孫の勝長が水野家を継ぐことが許されるが、
         福山から遠く離れた能登国にわずか1万石であった。
         その後結城藩へ移封となり現在まで続いていく。


⑥松平忠雅

     伊勢桑名へ移封

     大和郡山・播磨姫路・下野宇都宮等様々な土地に移封となり、幕末まで続く


⑦阿部正邦
⑧阿部正福
⑨阿部正右
⑩阿部正倫
阿部正精
⑫阿部正寧
阿部正弘
⑭阿部正教
⑮阿部正方
⑯阿部正桓

    広島藩浅野長勲の弟が正方の養子となる